戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

無題

55回 『アサヒグラフ』の「空から見た東京の焼跡」

1945年3月の大空襲後、東京の都心から下町にかけては、見渡す限りの焼け野原になった。「焼け野原」というのは、「焼けた野原」という意味にも使うが、ここでは言うまでもなく、「焼けて野原のように何もなくなった場所。やけのがはら」(『広辞苑 第5版』)…

54回 「武器よさらば!」――敗戦と『アサヒグラフ』

戦後グラフ誌の前史を振り返る必要を感じて、第35回から、『アサヒグラフ』創刊の1923年ごろにさかのぼり、グラフ誌の歴史をたどろうとした。前回ようやく、第1回に取りあげた『週刊毎日』とほぼ同じ時期の、45年11月に戻ってきた。しばらくは、戦後の『アサ…

53回 『LIFE』に掲載された「KAMIKAZE」

「大東亜戦争」に負けて、それまでの価値観からガラリと転換する。 敗戦を乗り越えて、戦後まで生き延びた雑誌は、新聞社系に多い。 毎日新聞社の週刊誌『サンデー毎日』は、1940年秋にB5判の「新体制規格版」になり(37回参照)、43年2月から45年末まで『週…

52回 「断ジテヤレ」――『写真週報』最終号

A3判8ページだった『写真週報』は、366号(1945年4月11日)からA4判16ページになる。用紙の厚みは0.12ミリで変わらないので、紙の使用量自体が減るわけではない。しかし、判型を半分の大きさにすることで、製版フィルムの有効利用や運搬の容易さなどに、メリ…

51回 3月10日の東京大空襲(3)

1945年3月10日の東京大空襲について『写真週報』が初めて報じたのは、3月28日発行の364-365合併号だった。『写真週報』は、総花的構成の『アサヒグラフ』に比べると特集主義で編集されている。A3判時代の『写真週報』は表紙とも8ページ(裏表紙は漫画と雑報…

50回 3月10日の東京大空襲(2)

1945年3月10日未明の「帝都空襲」被害を報じた『アサヒグラフ』の3月21日号には、漫画家・横井福次郎による「ルメーの教へたこと」が掲載された。書き出しは「ルメーの第一回東京夜間爆撃をうけて、残念ながらわが家は灰燼に帰したが、どつこいむざむざと只…

49回 3月10日の東京大空襲(1)

実際的な記事を掲載していた『日本写真』(日本写真公社)は、『写真雑誌の軌跡』(JCIIライブラリー、2001年)によると、1944年9月号で休刊になっている。手元には8月号までしかないので、突然の休刊の理由はわからない。業界内の理論誌として特化しすぎて…

48回 情報局に写真宣伝協議会を設置

海外向けと国内向けの国策写真の「指導」と「実践」を担う日本写真公社(旧・写真協会)が発行する月刊誌『日本写真』(1944年5~9月号?)に資料的価値を感じるのは、他の雑誌ではあまり目にすることのない組織・機構の話が、実際的な書きぶりで、記事にさ…

47回 大日本写真報国会と財団法人日本写真公社

1943年後半に起こった写真団体統合の流れは、「大日本写真報国会」の発足で決着する(『写真科学』43年11月号での「誤報」については45回参照)。『写真科学』44年5月号は、発会式の日を44年3月28日としているが、『日本写真』や『朝日新聞』は、3月29日と報…

46回 「書物も弾丸だ」――出版事業整備要綱

残っていた月刊の写真雑誌のもうひとつは、『報道写真』である。1944年3月号の「編輯後記」で、「なほ本誌は五月号より「日本写真」と改題し、唯一の写真綜合雑誌として新発足をするが、その準備の為四月号は休刊とする」と告知している。 『報道写真』1944…

45回 月刊誌も、改題や統合が続く

1944年4月、週刊グラフ誌『アサヒグラフ』と『写真週報』が、同時に体裁を変えて「戦時版」になった前後に、月刊のグラフ系雑誌や写真雑誌でも、改題や統合などが続いていた。 国策通信社である社団法人同盟通信社から刊行されていた月刊の『同盟グラフ』(4…

44回 「新体制規格版」から「戦時版」へ

前回、合成写真の例として挙げた『アサヒグラフ』1945年3月7日号は、墨版だけの表紙だったが、そこに至るまで、表紙やページ数は何回も変化している。 40年11月、『アサヒグラフ』は、それまでの表紙のカラー印刷(四六4倍判、表紙とも36ページ、表紙厚み0.1…

43回 大宅壮一はどう見ていたか

さて、しばらく大宅壮一のことを忘れていた。まず、彼が撮った写真を紹介しておこう。手近なところで、『写真週報』5号(1938年3月16日)の本文記事と、『文芸春秋 時局増刊 現地報告』11号(38年8月)の表紙である。戦後の写真時評では、「作為や歪曲の跡が…

42回 『LIFE』の写真を引用するプロパガンダ

前回紹介した林謙一の「敵誌ライフに大東亜戦争を見る」(1943年7~9月号)を連載した『報道写真』(財団法人写真協会、41年1月創刊、B5判)は、『フォトタイムス』(フォトタイムス社)と『カメラアート』(カメラアート社)を統合してできた雑誌で、国策報…

41回 林謙一情報官が「敵ながら天晴れ」と書く『LIFE』とは

前回とりあげた「防諜座談会」(各写真雑誌の1940年10月号)で、W少佐(陸軍省)は、戦争における防諜の重要性を語り、緒方信一(内務省外事課内務事務官)は、取り締まる立場として軍機保護法・軍用資源秘密保護法・要塞地帯法などを挙げ、国防上撮影禁止に…

40回 出版新体制――写真雑誌の「防諜座談会」は、架空の記事か?

出版物のサイズが「新体制規格版」に切り替わりつつある1940(昭和15)年10月前後、写真雑誌が一斉に「防諜座談会」という記事を載せる。 記事の題名は、雑誌によって違い、「当局に訊く 防諜座談会」(『カメラ』40年10月号、四六倍判)、「写真と防諜座談…

39回 戦前の『アサヒグラフ』で、木村伊兵衛が撮った女性風俗

1939(昭和14)年から40年にかけて、『アサヒグラフ』に、木村伊兵衛が撮影した写真が集中的に掲載される。1枚写真もあるが、いわゆる報道写真の手法で、組写真をまとめた記事が、いくつかある。その中から、女性風俗を写したものを紹介しよう。 「風光り女…

38回 円熟した3色印刷の魅力

四六4倍判の『週刊朝日』と『サンデー毎日』が、半分以下の大きさの「新体制規格版」(B5判)になったのは、1940(昭和15)年10月だった。『アサヒグラフ』は少し遅れて、41年1月から、ひと回りだけ小ぶりな「新体制規格版」(B4判)になる。 「新体制規格版…

37回 1940年秋、「新体制規格版」に

『旬刊朝日』(『週刊朝日』)と『サンデー毎日』の創刊で競いあった大新聞社の考え方を、創刊2年後の1924年に、大阪毎日新聞社社長・本山彦一が語っている。 新聞事業が発展し、「各部各課に分かれて分課になればなるほど人の頭数がよけいに要る。そうする…

36回 グラフ誌は、グラビア印刷に限る――『旬刊朝日』と比べてみる

週刊になった『アサヒグラフ』が、グラビア印刷を使って創刊されたのは、1923年11月14日だった。編集は東京で、印刷は大阪のグラビア輪転印刷機で、という『アサヒグラフ』の変則的製作方法は、戦後の61年に朝日新聞大阪本社の出版印刷部が廃止されるまで、3…

35回 グラフ誌は、週刊に限る?――『アサヒグラフ』創刊

25回以降、『毎日グラフ』の表紙デザインから『LIFE』を連想し、『ホープ』や『太陽』に寄り道をしてしまった。特に『ホープ』は、グラフ誌に分類するのは無理な雑誌だ。しかし、『ホープ』に限らず、月刊誌の口絵グラビアには、50~60年後の現在から見たと…

34回 『太陽』と「太陽賞」の時代性

『太陽』の1回目のリニューアルが行なわれたのは7号(1964年1月号)だった。前回述べたように、表紙や目次のデザインが変わり、内容的には、より身近なテーマ(「大東京は変貌する」など)が扱われるようになった。2回目のリニューアルは49号(67年7月号)で…

33回 ゆるい密度感から脱皮する『太陽』のリニューアル

『太陽』6号(1963年12月号)には、次号からのリニューアルが告知されている。「太陽は強化される●新年特大号予告●」は、「表紙と目次は、そのスタイルをかえ、これまでより読者に親しみやすいものになります」と記す。すでに6号から表紙が光沢のある用紙に…

32回 『太陽』に見える『暮しの手帖』『LIFE』からの影響

『太陽』(平凡社、1963年7月創刊、当初は定価290円)は、「「きりのない百科事典」であると同時に「目で見る詞華集」でもあります」(「創刊のことば」)と自分自身を規定している。毎号特集を組む、ぜいたくな教養志向の雑誌としてのスタートである。。創…

31回 『週刊サンニュース』の血筋を引き継ぐ『太陽』

1940年代アメリカの週刊『LIFE』は、60年代日本の月刊『文芸春秋』に相当する、という感想を、前回述べた。20年という時代の差は、もちろん、日米の経済力の差である。40年代後半の『LIFE』(週刊)の本文は、64ページから144ページくらいだから、同時代の『ア…

30回 『LIFE』は、日本で言うところのグラフ誌だったのか?

『ホープ』(実業之日本社、1946年1月創刊)の『LIFE』風外観は、1年で終った。それからほぼ1年後に、「日本の『LIFE』をつくる」と意気込む『週刊サンニュース』(サン・ニュース・フォトス、8号からサン出版社、47年11月創刊)が登場したが、1年半しか続かな…

29回 娯楽雑誌『ホープ』から、実用雑誌『オール生活』へ

実業之日本社の社史は、「昭和二十六年三月、一時は盛んな売行を見せた『ホープ』が、その後誌勢徐々に後退したところから、六月一日より誌名を『オール生活』と改題し、内容も従来の娯楽雑誌から生活指導雑誌に切りかえて再出発した」(『実業之日本社七十…

28回 方針のふらつく娯楽雑誌『ホープ』の1949-51年

『ホープ』の扉に、岩田専太郎が描く女性のイラストが載るようになるのは、1948年の10月からだ(49年になると、山名文夫のイラストも使われる)。そのころ、表紙が変わる。鮮明な色のバックに、女性のアップが浮かび、店頭で目立つスタイルになるのである。 …

27回 大衆雑誌から娯楽雑誌へ向かう『ホープ』の1948年

「新しい大衆雑誌」を自称する『ホープ』(1946年1月創刊)の編集方針は、「平凡の中のトツプに坐るやうに努力しよう」だった。「平凡」の基準は、終戦後最大の難問――食糧問題と住宅問題――が安定してくるにつれて、徐々に変わるのは当然のことだ。『LIFE』風…

26回 「平凡」に徹する大衆雑誌『ホープ』の1946-47年

『ホープ』(実業之日本社)が創刊された1946年1月は、終戦後初めて迎える新年であり、区切りよくここからスタートしようという雑誌が集中して、創刊ブームとなった。『世界』(岩波書店)、『展望』(筑摩書房)などの硬派総合月刊誌も、このとき創刊されて…