62回 伊藤逸平の『VAN』が終わるとき
綜合諷刺雑誌と謳った『VAN』には、著名な漫画家、評論家、作家が執筆した。創刊号(1946年5月)だけ見ても、漫画では横山隆一、近藤日出造、麻生豊、加藤悦郎、小川武、利根義雄、横井福次郎、堤寒三、秋好馨、佐宗美邦、池田献児。エッセイ・評論では徳川夢声、室伏高信、津村秀夫。小説では木々高太郎などの名が見える。
『VAN』には探偵小説が掲載され、「VAN増刊号」として、探偵小説名作選集を出すなど、探偵小説への傾斜が目立っていた。発行元のイヴニング・スター社は、47年4月には純文芸雑誌『諷刺文学』(のちの『人間喜劇』、A5判)と探偵小説誌『黒猫』(B6判)を創刊して、諷刺と探偵小説路線を鮮明にした(すべての雑誌の編集兼発行人の名が伊藤逸平になっている)。
イヴニング・スター社刊行の、徳川夢声『柳緑花紅録』(VAN叢書、1946年12月、B6判)、探偵小説名作選集『二つの髯を持つ男』(VAN増刊号、47年1月、B6判)、『黒猫』創刊号(47年4月、B6判)、『諷刺文学』創刊号(47年4月、A5判)なども、河野鷹思の装丁。河野は漫画風イラストからおどろおどろしい絵、書き文字まで、何でもこなす上に、すべてレベルが高いという突出した技倆のデザイナーである。
イヴニング・スター社の刊行物の大きな特徴は、大部分の装丁を河野鷹思が手がけていることだ。『VAN』の活版組みの本文用紙は、他誌に比べると少々見劣りする材質で、印刷もムラがあって読みにくい。ページ数も、最大68頁程度である。にもかかわらず、60年後の現在から見ると、表紙、グラフページ、漫画ページのレベルが高いので、ずっしりとした存在感を感じさせ、蒐集したくなる雑誌なのである。しかし思うに、河野による表紙イラストは、大衆向けの雑誌としては高級すぎたのではないか。48年5-6月合併号(通巻20号)以降の『VAN』の表紙は、漫画家・横山隆一が描いているものが多く、いかにも大衆性を感じさせる仕上がりになっている。
河野鷹思が描いた『VAN』の表紙(オフセット印刷)。左上から右へ1947年2月号、47年3月号、47年6月号。左下から右へ48年新年特輯号、48年2月号、48年4月号(47年4-5月合併号と7-8月合併号の表紙画像については、21回を参照)。
さて、大宅壮一は『VAN』のグラフページの諷刺路線をどのように見ていたか。
『毎日グラフ』連載の「写真時評」49年3月1日号に、大宅は、「諷刺雑誌、バクロ雑誌となるとモンタージュやトリック写真による口絵グラフに毎月知恵をしぼり近頃は大部進歩してきたようだ。漫画的な誇張に、写真のもつ現実感を加味して、刺戟度を高めようというのがねらいである。その中で、一番知的で、創作的で、諷刺性も強いのは「VAN」で、二月号でも「キス・ユー」から始まるニュー・ルックの解剖を試みているが、すべてモデルを使い、なかなか凝つたものである。しかし少々凝りすぎてひとりがてんに陥つている傾向がないでもない」と書く。
左:大宅壮一が、『毎日グラフ』連載の「写真時評」で取りあげた口絵グラフ「1949年型ニュールック集」(『VAN』49年2月号、グラビア印刷)。中:再出発した49年8月号(VAN出版社、編集人:本田英郎、発行人:秋元義治、表紙はオフセット印刷)。右:49年9月号(VAN出版社、編集人:本田英郎、発行人:桜井道博、表紙はオフセット印刷)。
大宅の「写真時評」では、「諷刺雑誌」である『VAN』も「バクロ雑誌」と同等に扱われているが、このころの『VAN』は、世の中の反動的な空気のなかで、左翼雑誌的性格を濃くしていた。48年10月号(通巻24号)の「編集後記」には、「初秋の今日この頃に、我々の焦燥をそゝるのは、何といつても危機に立つ労働運動の行手であらう。国家公務員法、共産党員公職追放案、非日活動調査委員会案、等々」と、左翼寄りの立場が窺える。そして、大宅がとりあげている49年2月号で刊行を中断し、イヴニング・スター社から切り離されてしまう。版元をVAN出版社にして再出発する49年8月号の「編集後記」は、「夏枯れ、首切り、スト、デモと社会相は急ピツチに悪化しそうだ。その時期によりによつて憎まれものゝVANが、再びあらわれ、大いに臍を曲げ、アマノジヤクになろうとするのである」と意気盛ん。目次を表紙に載せるなど、外観のリニューアルもして、わかりやすい雑誌をめざしたが、長続きしなかった(49年9月号が最終号か)。