戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

70回 手塚治虫の初期4コママンガ「女、ゆるすべからず」掲載の『ユーモア』(春陽堂)

 小野耕世『長編マンガの先駆者たち――田河水泡から手塚治虫まで』(岩波書店、2017年)を編集したとき、若き手塚治虫が影響を受けたマンガとして、『アサヒグラフ』『東京朝日新聞』に翻訳連載されたジョージ・マクマナス「親爺教育」「おやぢ教育」を調べたことがある。

 もともとアメリカでは平日の新聞に載っていた4コマ版の「親爺教育」は、1923(大正12)年の関東大震災前に日刊『アサヒグラフ』(活版印刷)に連載され、震災後には『東京朝日新聞』に連載された。アメリカの日曜版に1ページを占めて掲載された12コマ版は、震災後に再創刊された週刊『アサヒグラフ』(グラビア印刷)に、「おやぢ教育」の名で連載された。「おやぢ教育」の掲載は、1923年11月14日創刊号から1940(昭和15)年7月31日号までで、手塚治虫が影響を受けたのは、この週刊『アサヒグラフ』の連載である。

 誤解のないように記しておくと、手塚治虫がジョージ・マクマナスの「おやぢ教育(ジグスとマギー)」の絵柄を模写して使ったことは、秘密ではなく、手塚自身が話していることである。
 「ジョージ・マクマナスという人はもともとはマンガ家じゃなくて、建築設計士だったんですね。ですから、ビルのたたずまいだとか、部屋の中のインテリアだとか、たいへんすばらしい。最先端のニューヨークの情景が描けるわけですよ。それを見て、ぼくはニューヨークにあこがれ、アメリカ文明や、機械文明にあこがれたわけだけれど、それだけではなくて、ぼくの「鉄腕アトム」以前のSFマンガの、とくに背景っていうのは「ジグスとマギー」そのままといっていいくらい、影響を受けましたね」(『手塚治虫漫画全集別巻 手塚治虫漫画の奥義』聞き手:石子順講談社、1997年)

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グラビア印刷になった週刊『アサヒグラフ』創刊号(1923年11月14日号)

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手塚治虫が「ふしぎ旅行記」(家村文翫堂、1950年)に模写して使っていたことを、小野耕世氏が発見した「おやぢ教育」(『アサヒグラフ』1938年6月15日号)

手塚治虫が「おやぢ教育」の絵柄を模写して使った「ふしぎ
旅行記」(家村文翫堂、1950年)の最終節「動物園異変」の
1ページ(復刻版、角川書店、2001年)

 週刊『アサヒグラフ』の「おやぢ教育」には「連載第◯回」という表示はないが、今回の文章のなかで掲載回数を示したいというのが、小野耕世氏の考えだった。「おやぢ教育」の連載第1回と最終回はわかっているが、飛び飛びに掲載されていない号があり、巻数号数の引き算だけでは、掲載回数を割り出すことはできない。私の手元にある『アサヒグラフ』には欠号が多い。

 こういうときは、朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」で検索するに限る。ところが検索しても、週刊『アサヒグラフ』連載の「おやぢ教育」の、1937(昭和12)年から1940年が出てくるだけである。日刊『アサヒグラフ』連載の「親爺教育」(1923年)と、週刊『アサヒグラフ』連載の「おやぢ教育」の1936(昭和11)年までの分は、マンガ名や著者名で検索しても引っかかってこない。画像を見ると明らかに掲載されているのに、各号の目次にも取り上げられていない。

 1か所、作品名の間違いも発見したので、ついでに朝日新聞社に問い合わせたところ、以下のような返事をいただいた。

 「アサヒグラフの「目次・概要」は目次があるときは目次を、「目次」がない場合は、「概要」という形で、内容を抜粋して拾っています。1937年からはアサヒグラフに目次が付いているので、目次をそのまま入力しています。1936年まではアサヒグラフに目次が付いていない時期があり、目次の代わりに内容をピックアップした「概要」を入力しています。「概要」は、グラフ誌という性質上、「ニュース写真」「風俗写真」など写真を優先的に拾っています。1936年までの「おやぢ教育」が検索できないのは、「概要」として拾っていないためです。」

 「聞蔵Ⅱビジュアル」に拾われていない13年間の号を、すべて画面で見て確認するには何日もかかるし、数え間違いをしてしまいそうに思えた。そこで、正確な数字は別の機会にゆずることとして、小野耕世『長編マンガの先駆者たち』では、週刊『アサヒグラフ』に連載された「おやぢ教育」についての記述を、「足かけ十八年、八百回を優に超えるエピソードで、日本の読者を楽しませた」と無難な表現にしてもらったのだった。

 このとき、「聞蔵Ⅱビジュアル」を検索して得られた教訓は、人がひとつひとつ入力して、データベースを構築しているという事実で、だから、目次に記載されていない記事がデータベースに拾われる可能性はとても少ない、ということだった。

 『長編マンガの先駆者たち』刊行から3年も経って、そんなことを思い出したのは、2020年4月に『手塚治虫アーリーワークス』(888ブックス)が刊行されていたことに、8月下旬になってから気がついたからだ。

 ネットで内容を確認したところ、4コママンガ「女、ゆるすべからず」が収録されているが、発表年は不明となっている。また、手塚治虫公式サイト「虫ん坊」の「手塚治虫の原点にさかのぼれ!「手塚治虫アーリーワークス」制作チームインタビュー」によると、今回の作品集の中心は、「手塚先生が自ら新聞掲載作品を集めたスクラップブック」から作製されたという。

 じつは、「女、ゆるすべからず」は、春陽堂の『ユーモア』1948(昭和23)年2月号(第12巻第2号)の29ページに掲載されている。手塚治虫が19歳のときの作品だが、マンガの左に縦書きで「女、ゆるすべからず(手塚治画)」と、作品名と本名が記されるだけで、目次には、なにも掲載されていないのである。

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手塚治「女、ゆるすべからず」(『ユーモア』1948年2月号)

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『ユーモア』1948年2月号目次には、手塚の名は見えない

 『ユーモア』の前身は戦前の『ユーモアクラブ』で、『明朗』を経て『ユーモア』になったようだが、あまりみかけない雑誌で、国立国会図書館でも、プランゲ文庫のマイクロフィッシュ以外は1947(昭和22)年3月号のみ所蔵のようだ。プランゲ文庫のデータベースとして、NPO法人インテリジェンス研究所が作成した「20世紀メディア情報データベース」が有料で公開されているが、基本は目次入力であるらしい。はたして、手塚治「女、ゆるすべからず」は入力されているだろうか。

 私が持っている『ユーモア』は、1948年2月号(第12巻第2号)と5月号(第12巻第5号)。表紙絵はどちらも生沢朗で、5月号では、国会議事堂とバラック住居、英文道路標識によって、1948年の東京を鮮やかに記録している。

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『ユーモア』1948年2月号と5月号表紙