戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

66回 『青年読売』の最終号は、1945年4月1日発行の「第4輯」(2)

 前回紹介した『青年読売』第3巻第4号は、1945(昭和20)年4月1日発行で、活版印刷の表紙には「4輯」と記されている。表紙は張りのあるコート紙で、それなりに厚い手触りだが、実際には本文用紙(0.11ミリ)より表紙のほうが薄い(0.10ミリ)。2月号までの製本は(3月号は未見だが、三人社刊行の復刻版に当たってみたところ、巻頭に4ページのグラフ記事があり、平綴じであろうと思われる。また、目次には「三月号」ではなく、「第三輯」と記されていることを知った)、巻頭にグラビア印刷もしくはオフセット印刷の口絵がつき、針金1本で平綴じしたあと、くるみ表紙を背に糊でめていた。それに対して、本号では中綴じになり、針金1本が背に露出するスタイルとなっている。
 週刊誌であれば、表紙(表紙1)を1ページ、表紙裏(表紙2)を2ページと数え、本文は3ページから始まるのが普通だが、『青年読売』は『月刊読売』時代から、他誌とは違う数えかたをしていて、通常の週刊誌と比べ、ページ番号(ノンブル)が2ページずれている。本号の本文最終ページのノンブルは「三六」となっているが、枚数を数えると、本文は32ページで、表紙・裏表紙を合わせて36ページである。ほかの号に当たってみても、どうも、表紙から裏表紙(表紙1~表紙4)を先に1~4ページと数え、本文を5ページから数え始めているらしい(戦後まもなく、表紙を数えずに、本文の巻頭から1ページと数えるようになり、そののちには、通常の週刊誌と同様の方式になる)

『青年読売』第3巻第4号(1945年4月1日発行)の巻頭目次(ページ番号はないが、5ページと数える)と表紙
 『青年読売』第3巻第4号の目次ページには「昭和二十年第四輯」と記され、巻末の奥付は、「昭和二十年四月一日発行」となっているが、裏表紙の内側(本号目次でも「表紙3」と表記)の「時限爆弾」という記事では、「去る四月二日未明、B29約五十機が来襲した時も敵は一機または数機づゝ帝都北西地区に侵入、工場地帯を中心に広範囲に亘って照明弾を併用、爆弾、焼夷弾を投下し、更に神経戦を狙って時限爆弾を混用した」と、4月2日の東京空襲に触れている。また、木下半治「時局の観方」の一番初めのトピック「敵前政変」では、「沖縄島に敵軍上陸し、彼我の決戦いよいよ柑なる時、突如として国内に政変が起り、小磯内閣退き鈴木内閣が出現した」と、1945年4月1日の米軍の沖縄上陸、4月5日の小磯国昭内閣総辞職鈴木貫太郎への組閣命令(4月7日の鈴木内閣成立まで見届けたのかどうかは文章だけでは断定できないのだが)まで記述しているのである。
 もしも、平時の活版印刷のスピードが保たれていて、ほかの記事は先行して組版が進められていたとしても、本号の実際の発売日は(奥付発行日は4月1日だが)、最短でも4月10日以降であろう。3月10日の「東京大空襲」以降の印刷・製本・輸送の遅延を考慮すると、実際には、最大3か月程度の遅れが発生していても不思議はないのだが、まだ詳細は見えない。
 本号の表紙には、襟章(陸軍上等兵か)をつけた兵士が突進しようとする姿に、「一億斬込み!」という標語が入れられている。本文にも「我に斬込戦法あり」という記事が載っているが、この表紙の兵士の肩から背中にかけて見える偽装用ネットや破れた衣服から、目前に迫ってきた「本土決戦」の厳しさが伝わってくるようだ。

『青年読売』第3巻第4号(1945年4月1日発行)の巻末奥付(36ページ)

『青年読売』第3巻第4号「表紙3」の「時限爆弾」という記事。1945年4月2日の東京空襲に触れている

『青年読売』第3巻第4号の木下半治「時局の観方」。「敵前政変」では、米軍の沖縄上陸、小磯国昭内閣総辞職鈴木貫太郎内閣成立など、1945年4月上旬のできごとに触れている
 『月刊読売』1946(昭和21)年1月復刊号の「巻頭言 新らしき出発」には、『月刊読売』を改題した『青年読売』は「去る四月休刊の止むなきに至つて今日に及んでゐる」と記されていた。本来ならば、「4月に休刊号を出した」と解釈して問題ないのだが、ほかに休刊時期を「4月」と記した資料がなく、「裏を取る」ことができずにいたのも確かだ。
 手元の資料では、『月刊読売』復刊号の次に『青年読売』の名が出てくるのは、『日本出版年鑑 昭和19.20.21年版』(日本出版協同、1947年)だ。「雑誌部門別三年史」の「綜合・時局」の項(1946年時点での記述になっている)では、「「放送」「青年読売」の二誌は昨年初頭空襲の激化により印刷能力を失つて休刊し、本年に入つて再刊した」と記され、「初頭」以上に細かい休刊時期を示していない。
 そして、『日本出版年鑑 昭和19.20.21年版』の記述を22年後になぞったものと思われるのが、『日本雑誌協会史 第二部』(日本雑誌協会、1969年)で、「「放送」と「青年読売」は空襲で印刷できなくなり休刊した」と記されている。「空襲の激化により印刷能力を失つて休刊」と、「空襲で印刷できなくなり休刊」とでは、微妙に異なる表現ではあるが、果たしてどのような状況だったのか。1945年の印刷所に目を向けて考察してみよう。

『月刊読売』1946年1月復刊号(第4巻第1号)の「巻頭言 新らしき出発」。文章の末尾で、『青年読売』は、「去る四月休刊の止むなきに至つて今日に及んでゐる」と記しているが、手元にある号は、印刷がやや不鮮明である

『日本出版年鑑 昭和19.20.21年版』(日本出版協同、1947年)の「雑誌部門別三年史」より「綜合・時局」の項部分。1段目から2段目にかけて、『青年読売』の休刊について触れている

 本ブログの「49回 3月10日の東京大空襲(1)」で『写真科学』と『講談倶楽部』が空襲によって欠号したり合併号を出したことを紹介した。『写真科学』の1945年1-2月合併号までの印刷所は、小石川区久堅町108番地の共同印刷だったのが、戦前最終号の1945年5-6月合併号では、神田区錦町3丁目1番地の大同印刷になっている。また『講談倶楽部』の印刷所は、かつては麹町区丸ノ内3丁目8番地の有恒社だったのが、1944年には小石川区東古川町10番地の中外印刷になっている。

 それに対して、『月刊読売』『青年読売』の印刷所は、創刊以来、牛込区市谷加賀町1丁目12番地の大日本印刷である。
 大日本印刷は、『大日本印刷百三十年史(資料編)』(大日本印刷、2007年)の年表中、1945年の項に「5.25 空襲により、榎町工場・早稲田分工場・山吹寮・弁天寮等焼失、死者7人」と記されているが、それ以外は、ほとんど空襲被害を受けずにすんだ印刷工場だった。しかし、「四月、五月と何回かの空襲によって従業員の罹災者が多く出て欠勤者が増え、さらに一部の従業員は疎開していたため、生産能力は著しく減退した」。また、共同印刷凸版印刷大蔵省印刷局などが罹災し、「大手印刷会社で唯一、焼け残った当社の市谷工場には、大蔵省印刷局から作業員が派遣され、『官報』の印刷が行なわれた」(『大日本印刷百三十年史』)という。その一方で、1945年3月以降、仙台・福島・山形・秋田などへの工場疎開命令を受け、準備を進めてもいた。「そのころは機械も疎開していて、東京の工場では何分の一かになっていましたが、その機械のほとんどは、地図やデータなどを作るために軍に提供していました」(鈴木金蔵「私が歩んだ印刷人生」『大日本印刷百三十年史』に抜粋再録)という証言が残されているのだから、急速に、民間向けの余力がなくなっていたのだろう。
 『青年読売』とほぼ同時期に休刊になった大日本飛行協会の『飛行日本』では、1945年3月号までの印刷所は大日本印刷だったが、休刊号とされる1945年4-5月合併号(1945年5月1日発行)からは、長野市南県町の信濃毎日新聞社印刷部となっている。この号の表紙は、本文と共紙という最も簡略な体裁になっていて、「編輯室より」に、長野市新田町103に編輯分室を設置したことが告知されている。
 「★本誌もいよいよご覧のとほりの戦時版となつた。理由は資材その他の関係である。殊にグラビア印刷の進行が著しく遅れ、従来の形式を固執してゐては到底月刊の月刊たるの意義を保持出来ないからである。(中略)
 ★戦時版の形式を採用すると共に本誌は今般左記に編輯分室を設置することになつた。(中略)
 ★戦局はいよいよ切迫し、ますます重大化す。この秋に於ける吾々航空科学雑誌編輯者の任務は容易ならざるものである。本土の津々浦々が驕敵米B29の醜翼にさらされ、局部的にはあらゆる種類の敵機の来襲を見る。もはや「航空」の二字は完全に国民の生活に浸透し、「航空科学」の普遍と進歩こそはこの戦ひに勝つ因子であらねばならぬ。本誌が敢て戦時版を発行するのも、責任遂行のあらはれた結果の一つである。」

『飛行日本』1945年3月号(第20巻第3号、3月1日発行)と1945年4-5月合併号(第20巻第4号、5月1日発行)

『飛行日本』奥付。1945年3月号(左)の印刷人は大日本印刷、1945年4-5月合併号(右)は信濃毎日新聞社印刷部となっている

『飛行日本』1945年4-5月合併号の「編輯室より」には、長野市に編輯分室を設置したことが告知されている
 『飛行日本』1945年4-5月合併号掲載の「編輯室より」の「もはや「航空」の二字は完全に国民の生活に浸透し」という皮肉な表現から、この時期の空襲の状況が見えるだろう。『コンサイス東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』(復刻版、日地出版、1985年)の「牛込区・四谷区」のページを見ると(ピンク色が焼失区域)、市谷本村町の元陸軍省の北に隣接した大日本印刷のある市谷加賀町周辺と、南に離れた信濃町周辺のお屋敷街以外、ほぼ全面的に(地図左上、戸山町の陸軍戸山学校のあたりまでも)焼失していることがわかる。印刷工場だけが焼け残っていて、従業員も読者も、住む家がなくなっているのだ。

『コンサイス東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』(復刻版、日地出版、1985年)「牛込区・四谷区」のページ。中央白い部分が元陸軍省敷地(現在の防衛省)で、その北側が大日本印刷のある市谷加賀町。ピンクに塗られた部分が、戦災による焼失区域である
 さて、ここで結論を急ぐと、『青年読売』第3巻第4号の「4輯」という表示は、月刊であることをひとまずあきらめ、以降は不定期刊、もしくは休刊となる覚悟と無念さがにじみ出たものであった、と言ってよいだろう。のちにライバルとなる『週刊朝日』と『サンデー毎日』(戦時中は『週刊毎日』)は、どちらも大阪本社内で印刷していたからこそ、戦争末期にも休刊することなく、戦後につなぐことができたのである。
 1946年1月に復刊した『月刊読売』の印刷所は大日本印刷のままだが、6月号の印刷を京橋区入船町1丁目15番地の東京総合印刷所に移したあと、1回の欠号をはさんで、7月15日発行の「夏の増刊号」(第4巻第9号)からは、麹町区有楽町1丁目13番地の読売新聞社に替えられている。
 
 追記:弊ブログで取り上げた『青年読売』第3巻第4号は、『月刊読売 復刻版』第28巻として三人社より2018年10月31日に発行され、全ページご覧いただくことができるようになった。弊ブログとダブらぬような解題を執筆したつもりなので、興味のあるかたは、お読みいただければ幸いである。版元からの告知は以下の通り。