戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

37回 1940年秋、「新体制規格版」に

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『旬刊朝日』(『週刊朝日』)と『サンデー毎日』の創刊で競いあった大新聞社の考え方を、創刊2年後の1924年に、大阪毎日新聞社社長・本山彦一が語っている。
新聞事業が発展し、「各部各課に分かれて分課になればなるほど人の頭数がよけいに要る。そうすると物事はたいへん行届くが、一人々々の間に必ず余力ができる」。「その余力を集めて副業を起こし、そして利益を挙げ、したがって台所の費用ぐらいは、そんなもので償うようにしたら宜しかろう」(野村尚吾『週刊誌五十年』毎日新聞社、73年)というのだ。つまり、週刊誌というのは、もともとは新聞社内では隙間産業的な位置づけのものだった。

サンデー毎日』も『週刊朝日』も、表紙だけは『アサヒグラフ』そっくりな濃度を持つグラビア印刷の表紙になることは、前回述べた。当初は、紙の縁も不ぞろいのままだったが、その後、両誌とも針金で綴じられ、縁は化粧裁ちをされて、一回り小さくなる。『アサヒグラフ』とほぼ同じ寸法の四六4倍判になるのだ。やがて両誌は、32(昭和7)年の半ばからは、ほとんど毎号、カラフルな表紙を身にまとって、競い合うようになる。カラーオフセット印刷(たいていは、墨版なしの人工着色・3色印刷である)を採用し、若い女性の姿を載せて、読者の目を引く作戦である。
ところが、40(昭和15)年10月6日号から両誌同時に「新体制規格版」と称して小さな判型のB5判になる。その後は、前線の兵士や銃後の護り、南方への進出など、戦時色濃厚な絵柄の表紙になっていく。第二次近衛内閣を組閣した近衛文麿が唱えた「新体制運動」が、出版界では判型の統制という形で始まり、日本標準規格のA列、B列に統一されたのであった(その次に、雑誌の統廃合へ進む)。『朝日新聞出版局史』(朝日新聞社出版局、69年)は、「一九四〇(昭15)年秋、商工省は標準規格以外の判型の用紙はその生産を禁止し、翌年四月から規格外サイズの出版物は刊行できない措置をとった。『週刊朝日』『アサヒグラフ』などの四六4倍判は、天地で十二ミリ減のB4判にかわるはずであった。しかし、『週刊朝日』は、その十月六日号から、「新体制規格版」と銘うって、一挙にB5判(同誌現在の判型)に切りかえた」と記している。
日本雑誌協会史 第一部』(日本雑誌協会、68年)によると、40年11月7日に時の商工大臣小林一三の名のもとに公布された「商工省令第九十四号」は、41年1月1日以降、A列、B列の用紙以外は「抄造スルコトヲ得ズ」という用紙規格規則である。日本雑誌協会残務整理委員会は、これを受けて、11月27日に、「会員各位に於かれても昭和十六年一月一日発売の雑誌より仕上り寸法を右規格に依り」製作・発行するように通知している。つまり、『サンデー毎日』や『週刊朝日』の「新体制規格版」への移行は、「商工省令第九十四号」の公布以前のことであり、ここだけ見れば、国策に前倒しで順応したものだと言える。しかし、じつは日本標準規格による刊行は2年前から定められていた。38年9月3日、臨時物資調整局次長名で出された通牒「一三調整第九五七号」は、用紙使用量の2割減を決めるとともに「已ムヲ得ザル場合ヲ除クノ外左ノ通日本標準規格ニ依ルコト」となっていたはずなのだが、この通牒(現在の通達に当たる)は、ほとんど無視された形だった。どの出版社も自社の雑誌については「已ムヲ得ザル場合」だと称していたのだろう。
四六4倍判としては最後の号である『週刊朝日』40年9月29日号の巻頭に、「国策の嚮ふところに順応、内容の刷新をはかり、週刊誌独自の立場から、総力をあげて国民啓蒙の使命達成に勇往邁進するとともに、形の上においてもまた国策に即応するため、本誌創刊以来の永き伝統を一擲、次号より国定標準規格型を採用し、内容と外観と相俟つて新しき発足をすることに決定した」とのことばを掲げている。その下の「お知らせ」には、「本誌は次号(十月六日号)より、上掲巻頭のことばの通り新体制規格版となります。すなはち現在の本誌のほゞ半截大の国定標準規格判B5型(182mm×257弌砲箸覆蝓△靴燭つて繙読にも携帯にも非常に至便となります」と寸法を示している。
週刊朝日』と『サンデー毎日』がB4判にならずにB5判になってしまった理由は明らかではないが、もし『アサヒグラフ』と同じB4判になっていたら、その後の週刊誌の歴史は大きく変わっていただろう。戦時体制下の統制による判型の変更が、臨時の措置に終わらず、そのまま戦後に引き継がれたことは、戦前・戦後の継続性を強く印象づける。また、いまではB5判のことを週刊誌判と呼ぶようになっているのは、考えようによっては、皮肉なことである。

画像は上から順に、 А惱鬼朝日』の判型の変化。左から『旬刊朝日』1922年2月25日創刊号(タブロイド判)、『週刊朝日』40年9月29日号(四六4倍判の最終号)、新体制規格版1号目の40年10月6日号(B5判)、◆Щ溶4倍判の最終号である『週刊朝日』40年9月29日号巻頭ページ、:『サンデー毎日』の判型の変化。左から22年4月2日創刊号(タブロイド判)、40年9月29日号(四六4倍判の最終号)、新体制規格版1号目の40年10月6日号(B5判)、ぁА悒▲汽劵哀薀奸戮糧酬燭諒儔宗左から40年10月9日号(四六4倍判)、新体制規格版の41年1月22日号(B4判)。