戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

71回 故・清水勲氏は、1983年には労働組合の委員長だった

小野耕世『長編マンガの先駆者たち――田河水泡から手塚治虫まで』(岩波書店、2017年)と手塚治虫の話は、70回で記した。 小野耕世『長編マンガの先駆者たち』の刊行を記念して、親しくしていた銀座の若山美術館で、「小野耕世、マンガづけの少年時代」展とい…

70回 手塚治虫の初期4コママンガ「女、ゆるすべからず」掲載の『ユーモア』(春陽堂)

小野耕世『長編マンガの先駆者たち――田河水泡から手塚治虫まで』(岩波書店、2017年)を編集したとき、若き手塚治虫が影響を受けたマンガとして、『アサヒグラフ』『東京朝日新聞』に翻訳連載されたジョージ・マクマナス「親爺教育」「おやぢ教育」を調べた…

69回 戦後の『月刊読売』の製本方式と娯楽性(3)

岩田専太郎は、『アサヒグラフ』1948(昭和23)年4月14日号掲載の人物紹介欄「挿絵画家告知板」で、「挿絵は職人絵だから日本で一番立派な職人になりたい」と答えている。『月刊読売』1947年9月号表紙絵の和服女性の横顔は、岩田が他誌に発表してきた表紙絵…

68回 戦後の『月刊読売』の製本方式と娯楽性(2)

1946(昭和21)年1月に復刊した『月刊読売』が中綴じ製本だったのは、ごく短い期間で、手元の号で見ると、1946年5月号(第4巻第6号)から平綴じ製本になっているが、これは、「簡易平綴じ製本」とでも呼ぶべきものだ。本来の平綴じは、本体を綴じたあとに表…

67回 戦後の『月刊読売』の製本方式と娯楽性(1)

さて、『月刊読売』の戦後復刊(1946年1月)以降の製本方式と娯楽性との関連、それに連動するページの数えかたの変遷について、簡単に俯瞰しておきたい。 戦後の『月刊読売』の歩みは、刊行頻度を上げて、先行する週刊誌『週刊朝日』『サンデー毎日』に追い…

66回 『青年読売』の最終号は、1945年4月1日発行の「第4輯」(2)

前回紹介した『青年読売』第3巻第4号は、1945(昭和20)年4月1日発行で、活版印刷の表紙には「4輯」と記されている。表紙は張りのあるコート紙で、それなりに厚い手触りだが、実際には本文用紙(0.11ミリ)より表紙のほうが薄い(0.10ミリ)。2月号までの製…

65回 『青年読売』の最終号は、1945年4月1日発行の「第4輯」(1)

時代は少し飛ぶが、1951(昭和26)年7月から1960(昭和35)年12月までの9年半の間、週刊誌の定価30円時代が続いた。 まず、1951年5月1日、新聞・出版用紙の統制が完全に撤廃される。18年後に刊行された『日本雑誌協会史 第二部』(日本雑誌協会、1969年)は…

64回 朝日新聞社の『支那事変画報』と『アサヒグラフ』を比較する

日中戦争開始後、朝日新聞社が刊行した戦争報道グラフ『支那事変画報』(週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊)と、週刊のグラフ誌『アサヒグラフ』は、よく似た雰囲気の表紙だった。 しかし、表紙をめくって本文を見比べると、重要な相違点に気がつく。『アサヒ…

63回 朝日新聞社と大阪毎日新聞社・東京日日新聞社の『支那事変画報』

『毎日グラフ』が創刊されたのは1948年7月(創刊当時の表紙ロゴのデザインの変遷については、23回で触れた)。当初は月2回刊。ライバルは、23年創刊の『アサヒグラフ』だ。『アサヒグラフ』は、戦争末期に旬刊になった(50回参照)が、47年6月には週刊に戻っ…

62回 伊藤逸平の『VAN』が終わるとき

綜合諷刺雑誌と謳った『VAN』には、著名な漫画家、評論家、作家が執筆した。創刊号(1946年5月)だけ見ても、漫画では横山隆一、近藤日出造、麻生豊、加藤悦郎、小川武、利根義雄、横井福次郎、堤寒三、秋好馨、佐宗美邦、池田献児。エッセイ・評論では徳川…

61回 もうひとつの諷刺路線――伊藤逸平の『VAN』

『アサヒグラフ』の諷刺路線は、大新聞社の歴史あるグラフ誌という器の中に、飯沢匡好みの諷刺を注ぎ込んだものだった。 それに対して、新しく諷刺雑誌という器をつくり、口絵写真でも諷刺路線を鮮明にしようとしたのが、綜合諷刺雑誌『VAN』(イヴニング・…

60回 飯沢匡のプライド――『アサヒグラフ』と『婦人朝日』

飯沢匡(本名・伊沢紀)は、「アサヒグラフの副編集長に任命されてから、このグラフ雑誌に没頭した。生れつき視覚型の、何でも具体的に物を把握しないと気がすまぬ私には、まことに打ってつけの仕事であったから、仕事が面白くて仕方がないのであった」(『…

59回 『アサヒグラフ』の諷刺路線――副編集長・飯沢匡

1946年からの写真報道は、ふたつの路線に分かれて展開した。そのひとつ、民主主義とアメリカ文化紹介路線の例として、『旬刊ニュース』と『世界画報』を取りあげたが、『旬刊ニュース』は49年に実話雑誌になって終焉。『世界画報』は50年頃(正確な時期不明…

58回 民主主義とアメリカ文化の受容(2)――『世界画報』の場合

『世界画報』(世界画報社、1946年1月創刊、月刊、B5判、本文28ページ、グラビア印刷)は、良く言えば〈信念の雑誌〉、悪く言えば〈独りよがりの観念的な雑誌〉である。それは、民主主義とアメリカ文化の紹介をする一方で、戦争の真実を明らかにし、軍国主義…

57回 民主主義とアメリカ文化の受容(1)――『旬刊ニュース』の場合

戦中に国策報道写真体制に順応してしまった写真報道界は、主体性を確立しなければならないと考えたに違いない。まず終戦直後の1945年後半に現れたのは、ここ数回(53回~56回参照)にわたって見てきたように、戦争の真実を明らかにし、軍国主義を糾弾する写…

56回 『YANK』――グラビア印刷とオフセット印刷

『LIFE』1945年9月10日号(活版印刷)の大特集「U.S. OCCUPIES JAPAN」のトップページの写真は、厚木飛行場に掲げられたアメリカ国旗がはためくのを見上げる第11空挺師団(the 11th airborne division)の兵士たちである。同じ場所のカットが『YANK』45年10…

55回 『アサヒグラフ』の「空から見た東京の焼跡」

1945年3月の大空襲後、東京の都心から下町にかけては、見渡す限りの焼け野原になった。「焼け野原」というのは、「焼けた野原」という意味にも使うが、ここでは言うまでもなく、「焼けて野原のように何もなくなった場所。やけのがはら」(『広辞苑 第5版』)…

54回 「武器よさらば!」――敗戦と『アサヒグラフ』

戦後グラフ誌の前史を振り返る必要を感じて、第35回から、『アサヒグラフ』創刊の1923年ごろにさかのぼり、グラフ誌の歴史をたどろうとした。前回ようやく、第1回に取りあげた『週刊毎日』とほぼ同じ時期の、45年11月に戻ってきた。しばらくは、戦後の『アサ…

53回 『LIFE』に掲載された「KAMIKAZE」

「大東亜戦争」に負けて、それまでの価値観からガラリと転換する。 敗戦を乗り越えて、戦後まで生き延びた雑誌は、新聞社系に多い。 毎日新聞社の週刊誌『サンデー毎日』は、1940年秋にB5判の「新体制規格版」になり(37回参照)、43年2月から45年末まで『週…

52回 「断ジテヤレ」――『写真週報』最終号

A3判8ページだった『写真週報』は、366号(1945年4月11日)からA4判16ページになる。用紙の厚みは0.12ミリで変わらないので、紙の使用量自体が減るわけではない。しかし、判型を半分の大きさにすることで、製版フィルムの有効利用や運搬の容易さなどに、メリ…

51回 3月10日の東京大空襲(3)

1945年3月10日の東京大空襲について『写真週報』が初めて報じたのは、3月28日発行の364-365合併号だった。『写真週報』は、総花的構成の『アサヒグラフ』に比べると特集主義で編集されている。A3判時代の『写真週報』は表紙とも8ページ(裏表紙は漫画と雑報…

50回 3月10日の東京大空襲(2)

1945年3月10日未明の「帝都空襲」被害を報じた『アサヒグラフ』の3月21日号には、漫画家・横井福次郎による「ルメーの教へたこと」が掲載された。書き出しは「ルメーの第一回東京夜間爆撃をうけて、残念ながらわが家は灰燼に帰したが、どつこいむざむざと只…

49回 3月10日の東京大空襲(1)

実際的な記事を掲載していた『日本写真』(日本写真公社)は、『写真雑誌の軌跡』(JCIIライブラリー、2001年)によると、1944年9月号で休刊になっている。手元には8月号までしかないので、突然の休刊の理由はわからない。業界内の理論誌として特化しすぎて…

48回 情報局に写真宣伝協議会を設置

海外向けと国内向けの国策写真の「指導」と「実践」を担う日本写真公社(旧・写真協会)が発行する月刊誌『日本写真』(1944年5~9月号?)に資料的価値を感じるのは、他の雑誌ではあまり目にすることのない組織・機構の話が、実際的な書きぶりで、記事にさ…

47回 大日本写真報国会と財団法人日本写真公社

1943年後半に起こった写真団体統合の流れは、「大日本写真報国会」の発足で決着する(『写真科学』43年11月号での「誤報」については45回参照)。『写真科学』44年5月号は、発会式の日を44年3月28日としているが、『日本写真』や『朝日新聞』は、3月29日と報…

46回 「書物も弾丸だ」――出版事業整備要綱

残っていた月刊の写真雑誌のもうひとつは、『報道写真』である。1944年3月号の「編輯後記」で、「なほ本誌は五月号より「日本写真」と改題し、唯一の写真綜合雑誌として新発足をするが、その準備の為四月号は休刊とする」と告知している。 『報道写真』1944…

45回 月刊誌も、改題や統合が続く

1944年4月、週刊グラフ誌『アサヒグラフ』と『写真週報』が、同時に体裁を変えて「戦時版」になった前後に、月刊のグラフ系雑誌や写真雑誌でも、改題や統合などが続いていた。 国策通信社である社団法人同盟通信社から刊行されていた月刊の『同盟グラフ』(4…

44回 「新体制規格版」から「戦時版」へ

前回、合成写真の例として挙げた『アサヒグラフ』1945年3月7日号は、墨版だけの表紙だったが、そこに至るまで、表紙やページ数は何回も変化している。 40年11月、『アサヒグラフ』は、それまでの表紙のカラー印刷(四六4倍判、表紙とも36ページ、表紙厚み0.1…

43回 大宅壮一はどう見ていたか

さて、しばらく大宅壮一のことを忘れていた。まず、彼が撮った写真を紹介しておこう。手近なところで、『写真週報』5号(1938年3月16日)の本文記事と、『文芸春秋 時局増刊 現地報告』11号(38年8月)の表紙である。戦後の写真時評では、「作為や歪曲の跡が…

42回 『LIFE』の写真を引用するプロパガンダ

前回紹介した林謙一の「敵誌ライフに大東亜戦争を見る」(1943年7~9月号)を連載した『報道写真』(財団法人写真協会、41年1月創刊、B5判)は、『フォトタイムス』(フォトタイムス社)と『カメラアート』(カメラアート社)を統合してできた雑誌で、国策報…