戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

43回 大宅壮一はどう見ていたか

さて、しばらく大宅壮一のことを忘れていた。まず、彼が撮った写真を紹介しておこう。手近なところで、『写真週報』5号(1938年3月16日)の本文記事と、『文芸春秋 時局増刊 現地報告』11号(38年8月)の表紙である。戦後の写真時評では、「作為や歪曲の跡が見えない」写真をよしとした大宅(4回、22回参照)らしく、ストレートなスナップなのだが、不穏な時代の雰囲気を写しとっているのはさすがだ。イメージ 1
大宅壮一が撮った写真の一例。左:〈街角〉(「文壇従軍写真展」『写真週報』5号、1938年3月16日、グラビア印刷)。右:〈南支那海の戎克〉(『文芸春秋 時局増刊 現地報告』11号表紙、38年8月、オフセット印刷、写真はダブルトーン)。
 
大宅は、戦時中のグラフ雑誌や報道写真のことを、どう考えていたのだろうか。1941年、満洲映画協会にいた大宅は日本に呼び戻され、大宅自身が人選に関わったとされる「文化部隊」(宣伝班員)のキャップとなって、42年正月に陸軍歩兵第三連隊兵舎(六本木)からジャワ(インドネシア)に向けて出発する。42年3月にジャワに敵前上陸した宣伝班員には、漫画家の横山隆一小野佐世男、作家の冨沢有為男、デザイナーの河野鷹思もいた。大宅が帰国するのは、43年秋である。南方派遣以前と以後の大宅の言葉を、『報道写真』から拾ってみよう。
 
まず、中国にいたころの大宅が書いた「支那の宣伝写真」(『報道写真』41年2月号)だ。
大宅は、「全体的に見て、支那の写真界は、まだまだ低い段階にある。日本に比べると、ずつと幼稚である」と記す。そして、「対日宣伝写真にしても、極めて稚拙である。一つは印刷技術や紙質の悪いせいもあつて、実にきたない」と書くが、続けて、「しかし、それにもかかはらず、否、かへつてそれが一種の逆作用をして、迫真力を増してゐる場合が多い。それは丁度田舎者の粗朴や弁舌や服装が都会人よりも人の心を動かしたり、吃りが口達者な男よりも女心を巧みにつかんだりするのと同じであらう」と、男女の間のことにたとえるのが、大宅らしい捉えかたである。「そこに宣伝技術の秘密がある。近頃日本で出版される各種の対外宣伝出版物を見ると、欧米のこの種出版物を下手に追随したものが多い。地方の中都会から出てきたばかりのものが、急に江戸つ子の真似をしたといふ感じである。生じい芸術的效果をねらつたり、印刷や紙質に意を用ゐたりしたことが、迫真力を減殺してゐる」と、問題点をわかりやすく説明している。
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大宅壮一支那の宣伝写真」『報道写真』1941年2月号(B5判、活版印刷)。
 
大宅が指摘する問題点は、土門拳がのちに「対外宣伝雑誌論」(『日本評論』43年9月号)に書いて物議を醸す論点(「印刷資材や人手の足りない時代にこんな大同小異のつまらない雑誌を何んで幾種類も作る必要があるのかしらと疑問を持たずにゐられないであらう」)に近い。イメージ 3
土門拳「対外宣伝雑誌論」『日本評論』43年9月号(A5判、活版印刷)。
 
ジャワから帰った大宅の発言は、「座談会・闘ふ報道写真を語る」(『報道写真』44年1月号)に見える。肩書きは「前ジヤワ派遣軍宣伝班員」だ。
大宅は、「慰問袋と写真」について、「これからは送る品物もいよいよ減つて来るのだし、これはやはり精神的な慰問袋の方がいゝと思ひますね。例へば隣組の状況などを撮つて送つて貰ひたい」。「一寸した地震があつても、大変な被害があつたやうに伝はつたり、今年は不作だつたなどゝ云はれると、ひどく気にかゝるものです。かういふところを狙つて隣組の活躍ぶりとか銃後の安泰の様子とかを示した写真を送つて貰ふことが望ましいと思ひます」と、外地にいた経験を生かして、意見を述べている。
それに対して、朝日新聞東京本社写真部長・伊集院兼雄は、「例の出征軍人家族の写真を送るといふことを計画的にやつたらどうです」と応じ、慰問撮影が「計画的」と言えるほどの広がりを見せていないとの見解を示す(実際の慰問写真撮影については、次号の『報道写真』44年2月号に、興亜写真報国会理事・鈴木八郎による「軍人援護と写真」が載る。「現在出征家族の慰問撮影は、軍事保護院の委嘱を受け、興亜写真報国会々員が奉仕している」「全国的な組織を持ち、関係方面の監督、指導、連絡を得て大規模に実施してゐるのはこの会が唯一のものである」と報告している)
写真協会理事(『報道写真』編輯人)湯澤光行は、大宅が提案する慰問写真について、「ところが不幸にしてそれが敵の手に入るといふやうなことについて、どうお考へですか、逆宣伝の材料に使はれるといふ危険性が多分にありますが――」と疑問を呈する。「逆宣伝」に使われないための防諜と、自国を強く大きく見せる対外宣伝のふたつに引き裂かれ、写真界は主体性を失っていたことがわかる。大宅は、「それは或る程度の標準を定めて検閲制をとれば解決するでせう」と、実際的な答えをしている。
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「座談会・闘ふ報道写真を語る」『報道写真』44年1月号(B5判、活版印刷)。
 
座談会の冒頭、海軍省報道部員の戸崎徹大尉は、「戦時に於いては宣伝とか謀略とかを用ひることが必要で、或る時には事実を隠し、或る時には嘘をデツチ上げたりすることもある。さういふものに対する確かな資料としては写真以外にはありません」と語っている。特定の写真を別の文脈に使ってみたり、修正された写真を使って「嘘をデツチ上げたりする」可能性については触れていない。
しかし、写真を修整したり、一枚の写真に合成して、「嘘をデツチ上げたりすること」は、かなり行なわれていたはずだ。この座談会から1年以上あとの例だが、『アサヒグラフ』45年3月7日号の表紙を紹介しておこう。地面に映った影の向きの違いに気がつけば、複数の写真を合成しているのがわかる。3月10日の東京大空襲の少し前という、本土空襲が激しくなっていた時期に、これほど大部隊の戦闘機が悠々と集結することなど考えられない。
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合成された写真を表紙に使った『アサヒグラフ45年3月7日号(B4判、グラビア印刷)。キャプションには、「基地に待機、作戦を練る特攻隊員 海軍制空部隊基地にて・宮崎報道班員撮影」とある。