戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

42回 『LIFE』の写真を引用するプロパガンダ

前回紹介した林謙一の「敵誌ライフに大東亜戦争を見る」(1943年7~9月号)を連載した『報道写真』(財団法人写真協会、41年1月創刊、B5判)は、『フォトタイムス』(フォトタイムス社)と『カメラアート』(カメラアート社)を統合してできた雑誌で、国策報道写真の理論誌という位置づけである。以前から海外の写真潮流に敏感だった『フォトタイムス』は、光吉夏弥の「氾濫する十仙グラフ――アメリカの写真ジヤーナリズム――」(38年1月号)では、LIFE』などの評判に注目し、海外に日本を知らせる写真とメディアの必要性について語っていた(25回参照)。
「防諜座談会」(40回参照)が掲載された40年10月号から、『フォトタイムス』は表紙の雑誌名の上に「報道写真雑誌」と掲げる。「編輯後記」にも、「本誌は今日の写真界の体制を熟慮して、こゝに報道写真雑誌として再出発した」と記している。『カメラ』や『アサヒカメラ』にくらべると、積極的に新体制に踏み込んでいく姿勢を表わしたものだ。
『報道写真』42年11月号の「編輯後記」には、「米国が厖大な物的資源を擁して着々対日戦備を整へつゝあることは、最近新聞や雑誌で繰返し報道されてゐる通りであるが、これらの報道を通じて米国のグラフ雑誌『ライフ』が如何に重要な役割を果しつゝあるかといふことを今更のやうに痛感せずには居られない」と書かれている。これは、林謙一の連載「敵誌ライフに大東亜戦争を見る」につながる論調で、『LIFE』をお手本にして日本の対外宣伝の方策を考えよう、という文脈である。
イメージ 1
「編輯後記」『報道写真』1942年11月号(B5判、活版印刷)。「これらの報道を通じて米国のグラフ雑誌『ライフ』が如何に重要な役割を果しつゝあるかといふことを今更のやうに痛感せずには居られない」と記されている。
 
一方で、『LIFE』に掲載された写真を使って、いかに敵(米国)が残虐残忍であるかを訴える引用も、各誌で繰り返し行なわれてきた。
まず、『同盟グラフ』42年11月号の「抑留地の在米邦人」を見てみよう。「大東亜戦争勃発と同時に、米当局は不法にも太平洋岸に住む約十一万二千の邦人に立退き命令を発し、囚人に対する如くに邦人を護送抑留した。(写真は近着ライフ誌に見る当時の模様である)」と出典を明らかにして引用している。
イメージ 4
「抑留地の在米邦人」『同盟グラフ』42年11月号(A4判、グラビア印刷)。「近着ライフ誌に見る当時の模様である」と出典を明らかにし、比較的ニュートラルな引用の仕方である。
 
同じ『LIFE』の写真は、『報道写真』43年3月号の「写真に訊く 抑留日本人の生活」にも使われているが、出典を明かさず、「茲に掲げたグラフは米国が公然と発表したものであつて、事実は更に過酷であることを見逃してはならぬ」と書き、米国のメディアでは国策に沿った報道が行なわれていると決めつけた書きかたをしている。
イメージ 2
「写真に訊く 抑留日本人の生活」『報道写真』43年3月号(B5判、活版印刷)。出典は明らかにされず、悪意を込めた引用になっている。
 
その1年後の『アサヒグラフ』44年3月1日号の「撃て!この鬼畜! 敵米国の暴虐を直視せよ」と題する大特集にも、「敵は「俘虜虐待」を捏造しつゝ抑留同胞にはこの迫害!」という見出しをつけて、同じ写真が引用されている。『LIFE』の英文見出しやキャプションを、そのまま複写し、「JAPS」という文字を見せることで、もともとの記事が、日本人に敵意を示すものであったことを強調している。
イメージ 3
「敵は「俘虜虐待」を捏造しつゝ抑留同胞にはこの迫害!」『アサヒグラフ44年3月1日号(B4判、グラビア印刷)。右ページ上と左ページ上の2枚に、「米誌ライフより」とキャプションがついている。「撃て!この鬼畜! 敵米国の暴虐を直視せよ」と題する大特集の一部で、敵意がむき出しだ。
 
この『アサヒグラフ』44年3月1日号の記事は、特にプロパガンダの色彩が強い。左下にレイアウトされた「そして罪なき原住民を虐待す」という囲み記事の写真のキャプションは、「追ひ立てられる国境在住のビルマ人」となっているが、はたしてそういう文脈で撮られた写真なのか、確信は持てない。主義・思想の宣伝であるプロパガンダにおいては、写真が真実を写しているかどうかは問題ではなく、発信する側の論理に沿うように、同じ写真が繰り返し使われるからだ。
こうして3誌を並べてみると、同じ『LIFE』の写真が、時間の経過とともに、より敵意の強い記事に引用されるようになっていくのが見える。また、『アサヒグラフ』のような週刊グラフ誌では速報性が求められていたはずだが、44年ともなると、いつ撮影したものかわからない写真ばかりで構成されるようになっていたこともわかる。