戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

44回 「新体制規格版」から「戦時版」へ

前回、合成写真の例として挙げた『アサヒグラフ1945年3月7日号は、墨版だけの表紙だったが、そこに至るまで、表紙やページ数は何回も変化している。
40年11月、『アサヒグラフ』は、それまでの表紙のカラー印刷(四六4倍判、表紙とも36ページ、表紙厚み0.10ミリ、本文0.07~0.08ミリ)をやめて、地味な単色の表紙にするが、サイズは四六4倍判と変わらず、中途半端に国策に先回りしている感があった。実際には、本文共紙にすることで、4ページ減(表紙とも32ページ)としただけでなく、グラビアとオフセット併用で手間のかかる印刷をしていた厚い別紙の表紙をやめたので、用紙節約とコストダウン効果が相当あったはずである。
次には、41年1月に、ほんの少しだけ小さな「新体制規格版」(B4判、表紙とも32ページ、厚み0.07~0.08ミリ)になる(37回参照)が、地味なモノクロ表紙のおかげで、雑誌の位置づけもはっきりせず、アピール性も弱いままであった。
朝日新聞社の雑誌が、国策に沿う方向性をはっきり打ち出してきたのは、ちょうど40年秋のことだ(40回参照)。40年10月に『映画朝日』を廃し、11月に『航空朝日』創刊。41年11月に『科学朝日』創刊。42年4月に『アサヒカメラ』を廃して、5月に『週刊少国民』創刊、といった具合に、戦争遂行に役立つ雑誌にシフトしていく。そんな流れのなかの41年7月、『アサヒグラフ』も、国内向けの国策グラフ誌という位置づけを鮮明にする。大きく変わったのは、表紙の印刷である。題字まわりと足元に朱色を配するデザインになって、厚みのある表紙が復活するが、同時に減ページも行なわれた(表紙とも28ページ、表紙厚み0.11ミリ、本文0.09ミリ)。朱と墨という色遣いは、ロシア・アヴァンギャルド以来のプロパガンダの定形であるが、ここでは、『LIFE』を意識したものだと考えるのが自然だろう。ちなみに、墨版はグラビア印刷だが、朱色は社外のオフセット印刷工場に依頼していた(23回参照)。
アサヒグラフ』表紙の墨+朱の2色印刷は2年半続いたが、総ページ数は28→24→20と徐々に減っていた。44年4月5日号からは、再び別紙の表紙をやめ、本文共紙にして単色の表紙にするが、4ページ減(表紙とも16ページ、厚み0.10ミリ)となる。ちょうど「新体制規格版」になったときの半分のページ数である。雑誌名の横に「画報雑誌」という部門別の文字が入るという変化もあった(45年1月17日号で終わる)。裏表紙の下には、すでに43年12月から回覧用の捺印・署名欄が設けられ、「廻読が済めばスグ戦地の兵隊さんに送つて上げませう」と、慰問品としての再利用を勧めていた。手触りやツヤなど、グラビア用紙の質にばらつきが目立つようになるし、この先、厚みもだんだんと薄く、0.07ミリくらいになる。
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アサヒグラフ』の2色刷り表紙最終号となった1944年3月29日号表紙(B4判、グラビア印刷オフセット印刷)と、単色になった4月5日号表紙(B4判、グラビア印刷)。
 
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アサヒグラフ44年3月29日号と4月5日号の裏表紙。広告の下に、回覧用の捺印・署名欄が設けられている。
 
アサヒグラフ』の外観とページ数が変わった44年4月、用紙不足を背景にして、他誌も同様な変更を行なっている。
当時、週刊のグラフ誌は、『アサヒグラフ』(B4判)以外は、「国策のグラフ」を謳う情報局編輯、印刷局発行の『写真週報』(38年2月16日創刊、当初は内閣情報部編輯発行、A4判)だけだった。
 
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『写真週報』表紙(A4判、グラビア印刷オフセット印刷)。左から創刊号(38年2月16日)、2号(38年2月23日)、3号(38年3月2日)。
 
『写真週報』314号(44年3月22日)の「『写真週報』戦時版のお報らせ」で、「本誌は来る四月五日号から現在の大きさの倍のA3版総グラビア刷八頁(戦時版) として発行することになりました。戦局の要請にもとづきこれによつて用紙の節約をはかるとともに新構想のもと(略)着々と準備を進めてをります。御期待下さい。尚次の三月二十九日号は休刊いたします」と告知をしている。創刊当初は総グラビア印刷だった『写真週報』も、このころは表紙とも20ページのうち、本文8ページは活版印刷になっていた(表紙厚み0.12ミリ、グラビア本文0.10ミリ、活版本文0.12ミリ)。
2週後の315号(44年4月5日)から大判の「戦時版」になり、それまでは表紙裏に掲載されていた「時の立札」と呼ぶスローガンが、表紙に大きく刷られるようになる。A3判8頁になっても、大幅な用紙節約にはならないが、針金で綴じない体裁なので、A2判の紙2枚にばらすことができた(表紙厚み0.12ミリ、本文0.10ミリ)。「本誌を読まれた後は、隣組や職場で回覧するばかりでなく、表紙や見開きの写真頁を、職場や校庭の掲示板などで「壁写真新聞」として是非活用して下さい。戦時版の狙ひもこゝにあります。また前線慰問にも送つてあげて下さい」と、壁新聞としての掲示が奨励されていた。
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『写真週報』314号表紙(44年3月22日、A4判、グラビア印刷オフセット印刷)と、315号表紙(44年4月5日、A3判、グラビア印刷オフセット印刷)。315号から、「時の立札」が表紙に掲載されるようになった。3月29日の号は休刊。
 
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『写真週報』314号裏表紙(44年3月22日)では、回覧し、前線慰問に活用することを勧めている。315号裏表紙(44年4月5日)は、広告を載せない体裁になった。広げるとA2判になる大きさを活用して、壁写真新聞として掲示することが勧められている。