71回 故・清水勲氏は、1983年には労働組合の委員長だった
小野耕世『長編マンガの先駆者たち――田河水泡から手塚治虫まで』(岩波書店、2017年)と手塚治虫の話は、70回で記した。
小野耕世『長編マンガの先駆者たち』の刊行を記念して、親しくしていた銀座の若山美術館で、「小野耕世、マンガづけの少年時代」展という展覧会(2017年4月25日‐6月24日)を開催し、小野耕世氏と私の対談(実際は、小野耕世独演会)というイベントも2回行なったのだが、清水勲氏も、このイベントに来場してくれた。
清水氏にお会いしたのは、ずいぶん久しぶりだったが、イベント後、銀座の街角でお仲間たちに囲まれているのを遠くから見たときも、かつての陽気な清水さんのイメージではなく、とても静かな様子だった(清水氏が亡くなったのは2021年のことだが、このころから、体調がすぐれなかったのだろうか)。
その後、『東京新聞』(2017年7月30日)に、清水氏による書評が掲載された。
「著者は私と同じ昭和十四(一九三九)年生まれで共に東京育ち。少年期の長編マンガ読書体験をもとに、作品のマンガ史的意味と作家に対する思い入れを語っている.。とくに著者が昭和二十年代前半における長編子どもマンガのリアルタイム読者であったことは、戦後マンガ創成期の複雑な実像を若い世代に伝える意味を持っている」と、この本の特徴をとらえて書き始めている。編集した私としても、「その通りなんですよ!」と、大きくうなずいてしまう文章だ。
ところが後半では、「本書でちょっとわかりにくいのは、「長編子どもマンガ」と「長編大衆マンガ」の流れである」と注文をつけている。じつは、この清水氏の後半の文章こそ、「ちょっとわかりにくい」のである。
文章は、以下のように続く。
「前者のスタートは大正六(一九一七)年、岡本一平が児童雑誌『良友』に連載した「珍助絵物語」。それを継いだのが、弟子の宮尾しげを(「団子串助漫遊記」など)であり、「のらくろ」に代表される講談社マンガ、「火星」に代表されるナカムラマンガである。「長編大衆マンガ」は大正七年の近藤浩一路「漫画坊っちゃん」(新潮社)からスタート、岡本一平「人の一生」(『婦女界』大正十三~昭和四年連載)を経て、「現代連続漫画全集」につながる」。
このように清水氏が記す「「長編子どもマンガ」と「長編大衆マンガ」の流れ」は、『東京新聞』の読者(私もその一人)に、簡単には通じないと思えたし、清水氏による漫画の歴史の読みかたが、すべての人に共通の常識として定着しているはずもないと思った。それに、この本で小野耕世氏がナカムラ・マンガ・シリーズなどに触れたのは、「日本の長編ストーリーマンガ発展の〈起爆点〉は、一九三〇年代ではなかったか」という、以前からの小野氏の思いを掘りさげた「序章」においてのことで、もとより体系的・系統的な構成の記述を目指したものではない。そもそも、小野氏の文章の魅力は、少年時代を回想するときのみずみずしい感覚にあり、彼が、論理よりも感性・感覚の人であることは、清水氏ならば、よく知っていたはずだ。
この書評を読み、展覧会を開催してくれた若山美術館の武田文館長の、「清水さん、どうしちゃったんだろうね」という声を聴きながら、私は数十年前に日本リーダーズダイジェスト社労働組合の異色委員長として清水氏が紹介されていた記事を思い出していた。
記事の中で、「残りの人生を十億秒として、好きなことができるのはせいぜいあと三億秒」と答えていた清水氏は、その後、約十一億九千秒を生きたことになる。次回以降、清水勲氏の思い出や、彼が構築した日本の漫画史について考えていきたい。