戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

2010-03-01から1ヶ月間の記事一覧

41回 林謙一情報官が「敵ながら天晴れ」と書く『LIFE』とは

前回とりあげた「防諜座談会」(各写真雑誌の1940年10月号)で、W少佐(陸軍省)は、戦争における防諜の重要性を語り、緒方信一(内務省外事課内務事務官)は、取り締まる立場として軍機保護法・軍用資源秘密保護法・要塞地帯法などを挙げ、国防上撮影禁止に…

40回 出版新体制――写真雑誌の「防諜座談会」は、架空の記事か?

出版物のサイズが「新体制規格版」に切り替わりつつある1940(昭和15)年10月前後、写真雑誌が一斉に「防諜座談会」という記事を載せる。 記事の題名は、雑誌によって違い、「当局に訊く 防諜座談会」(『カメラ』40年10月号、四六倍判)、「写真と防諜座談…

39回 戦前の『アサヒグラフ』で、木村伊兵衛が撮った女性風俗

1939(昭和14)年から40年にかけて、『アサヒグラフ』に、木村伊兵衛が撮影した写真が集中的に掲載される。1枚写真もあるが、いわゆる報道写真の手法で、組写真をまとめた記事が、いくつかある。その中から、女性風俗を写したものを紹介しよう。 「風光り女…

38回 円熟した3色印刷の魅力

四六4倍判の『週刊朝日』と『サンデー毎日』が、半分以下の大きさの「新体制規格版」(B5判)になったのは、1940(昭和15)年10月だった。『アサヒグラフ』は少し遅れて、41年1月から、ひと回りだけ小ぶりな「新体制規格版」(B4判)になる。 「新体制規格版…

37回 1940年秋、「新体制規格版」に

『旬刊朝日』(『週刊朝日』)と『サンデー毎日』の創刊で競いあった大新聞社の考え方を、創刊2年後の1924年に、大阪毎日新聞社社長・本山彦一が語っている。 新聞事業が発展し、「各部各課に分かれて分課になればなるほど人の頭数がよけいに要る。そうする…

36回 グラフ誌は、グラビア印刷に限る――『旬刊朝日』と比べてみる

週刊になった『アサヒグラフ』が、グラビア印刷を使って創刊されたのは、1923年11月14日だった。編集は東京で、印刷は大阪のグラビア輪転印刷機で、という『アサヒグラフ』の変則的製作方法は、戦後の61年に朝日新聞大阪本社の出版印刷部が廃止されるまで、3…

35回 グラフ誌は、週刊に限る?――『アサヒグラフ』創刊

25回以降、『毎日グラフ』の表紙デザインから『LIFE』を連想し、『ホープ』や『太陽』に寄り道をしてしまった。特に『ホープ』は、グラフ誌に分類するのは無理な雑誌だ。しかし、『ホープ』に限らず、月刊誌の口絵グラビアには、50~60年後の現在から見たと…

34回 『太陽』と「太陽賞」の時代性

『太陽』の1回目のリニューアルが行なわれたのは7号(1964年1月号)だった。前回述べたように、表紙や目次のデザインが変わり、内容的には、より身近なテーマ(「大東京は変貌する」など)が扱われるようになった。2回目のリニューアルは49号(67年7月号)で…