戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

34回 『太陽』と「太陽賞」の時代性

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『太陽』の1回目のリニューアルが行なわれたのは7号(1964年1月号)だった。前回述べたように、表紙や目次のデザインが変わり、内容的には、より身近なテーマ(「大東京は変貌する」など)が扱われるようになった。
2回目のリニューアルは49号(67年7月号)で、造本上の大きな変更が伴った。創刊以来4年続いた左開き横組みをやめ、右開き縦組みを採用したのである。組み方を変更するところまで、『週刊サンニュース』と同じ道筋を歩むのは不思議だが、横組み受難の歴史は繰り返されるのだ。
『週刊サンニュース』のレイアウトでも触れた通り(10回参照)、左開き横組みは、すべての視線が左上から右下方向へと移動するので、とても合理的だ。レイアウトするのも容易だが、左右方向のラインが強くなるので、ドライで硬い印象になる。『週刊サンニュース』では、中垣虎児郎による読み物「極北綺譚」が、創刊号から連載された。日本ではなく北極地方の物語でもあり、水平方向に広がる挿絵も載るので、横組みでもどうにか読むことができた。しかし、井伏鱒二の長篇小説「貸間アリ」の連載を機に、8号から右開き縦組みになったのだった。
右開き縦組みを採用した『太陽』49号の特集は、「源氏物語とその絵巻」だ。編集長の田辺徹は、美術ものを手がけてきた経験があり、日本美術を特集記事に生かすには、縦組みのほうが有利という判断をしたのだろう。
『太陽』の特集記事の内容は、編集長の個性によって変化している。『平凡社六十年史』(平凡社、74年)は、「谷川[健一]時代には「エスキモー」「沖縄」「紅頭嶼・海の高砂族」とやや辺境志向の強い編集が見られたが、小林[祥一郎]時代になると幾分社会科的なひろがりが強調され」た、と記している。美術ものを増やして、縦組みを採用した田辺徹は、第3代編集長だ。

63年の『太陽』創刊当初には、表紙用紙などにぜいたくな手触り感があった。64年のリニューアルで、材質的な豪華志向は弱まったが、レイアウトに密度感と緊張感が増し、雑誌全体の高級イメージは一応維持された。しかし、67年のリニューアルを経て、高級感はぐっと弱まる。相変わらず表紙には「THE SUN, monthly de luxe」と表示されていたが、レイアウトも泥臭くなり、大衆向けの雑誌になってきた印象が強い。
それでも、写真好きの読者に、グラフィックなイメージを強く残していたのは、63年12月に創設された「太陽賞」のおかげだ。縦組みの49号に発表された第4回受賞作「ある山村の生活――秩父――」(撮影・文:南良和)は、山村の嫁の問題をあぶりだして、「岩波写真文庫」の『農村の婦人――南信濃の――』(54年、撮影:熊谷元一)を思い出させる作品だし、13号(64年7月号)に発表された第1回受賞作品「さっちん」(撮影:荒木のぶよし)は、若きアラーキーの才能を示すだけでなく、60年代初めの東京の雰囲気と、ひとりの腕白少年の存在感の両方が写っているということで、歴史に残る写真だ。
じつは、60年代の『太陽』を買い集める意欲は、あまりわかない。重くて場所をとるという理由だけではない。ぜいたく志向で、実際以上に豊かさを感じさせる編集であり、同時代をそのまま映し出す企画が少ない傾向があるからだ。今読んでみても、60年代日本を直接発見して感動する、という面が弱い。だから、「太陽賞」に写しとられている時代性は、とても貴重だ。

画像は上から、右開き縦組みを採用した『太陽』49号表紙(1967年7月号、オフセット印刷)、『太陽』49号目次(67年7月号、オフセット印刷)、特集記事「源氏物語とその絵巻」『太陽』49号(67年7月号、オフセット印刷)、第4回太陽賞受賞作品「ある山村の生活――秩父――」『太陽』49号(67年7月号、グラビア印刷、撮影:南良和)、第1回太陽賞受賞作品「さっちん」『太陽』13号(64年7月号、グラビア印刷、撮影:荒木のぶよし。ただし、このページでは「よしのぶ」と誤植されている)。