戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

33回 ゆるい密度感から脱皮する『太陽』のリニューアル

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『太陽』6号(1963年12月号)には、次号からのリニューアルが告知されている。「太陽は強化される●新年特大号予告●」は、「表紙と目次は、そのスタイルをかえ、これまでより読者に親しみやすいものになります」と記す。
すでに6号から表紙が光沢のある用紙に変更されたことは、前回記した。今回の表紙のスタイル変更の1番目は、題字部分の色遣いの変更である。創刊以来、題字部分を3段に分け、毎号、段ごとに色を変えていたのだが、64年1月号以降は、3段とも同色にした(地色が暗い色のときは「太陽」の文字は白抜きで、明るい色のときは墨色であるのは、それまでと同じ)。変更の2番目は、表紙に特集題を載せるようになったこと。内容に自信があるから手に取ってもらえるのが当たり前、という姿勢から、今月の特集はこれですよ、と読者にアピールするようになったというわけだ。
そして、目次の変更点は、6号まで小修整しながら続いてきた格子状で左右対称のレイアウトを廃止し、新しいデザインになったことである。新しい目次も、ジャンル別のままで、そういう意味では理屈っぽいレイアウトなのだが、左から右への流れを明確にしたスピード感が特徴だ。それにしても、創刊半年余りで、めまぐるしい変更である。

このころまでの『太陽』は、試行錯誤の連続である。準備不足のまま、ぜいたくな雑誌を創刊してしまったが、特にデザイン面が追いついていなかったと見える。
創刊当初は、密度感が極端にゆるい。写真も文字も、ただ大きくレイアウトしただけだから、平板で単調である。オフセット印刷が基本だから、文字組みは、台紙作成に直結できる写真植字(写植)を使っている。平凡社は、写植については、早くから経験を積んできた出版社だが、『太陽』のように文字の多い雑誌では、誤植・訂正のたびに新たに打ち直さなくてはならない写植は、本当は不利だ。豊富な書体と級数が使える写植も、この時代は半端な級数が使えないから、かえって不自由だった。読みやすさが経験的に実証されている9ポイント(12.65級相当)も、8ポイント(11.25級相当)も使えない。ポイント活字で育ったレイアウトマンの頭の中を、級数に入れ替えるのは容易ではなかっただろう。
写真のレイアウトも、活版時代の感覚から抜け出していない。カラーページでは、墨文字を写真に乗せるのが精一杯で、色文字の毛抜き合わせも、白抜きもしない。「見当ずれが恐いし、文字に訂正が入ったら、4版全部やり直しになるからなあ」という本音がすけて見える。ぜいたく雑誌のはずなのに、訂正代を恐れて、のびのびとしたレイアウトが実現できていないのである。残念ながら、『太陽』立ち上げに携わったレイアウトマンの力量不足は否めない。
密度感の足りないレイアウトは、64年のリニューアルでほぼ一掃された。外部デザイナー(特集記事の「構成」や「レイアウト」に、粟津潔杉浦康平、江島任などの名が見える)の個性を借りて、いかにも雑誌らしいメリハリと複雑さが、やっと実現されたのである。

画像は上から、新しいデザインになった目次『太陽』7号(1964年1月号、オフセット印刷、デザイン:NDC)、白抜き文字や、毛抜き合わせの色文字を使った「正月のあそび その色とかたち」のトップページ『太陽』7号(64年1月号、オフセット印刷、撮影:大辻清司、構成:粟津潔)、図版の大小でメリハリを出し、版面意識を刺激した「東海道五十三次」『太陽』7号(64年1月号、オフセット印刷、構成:杉浦康平・志村和信)、単色の左ページと4色の右ページという見開きのなかで、敢えて縦組みを使ってみせた「日本の「かたち」を染める」『太陽』13号(64年7月号、オフセット印刷、撮影:大倉舜二、レイアウト:江島任)。