戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

57回 民主主義とアメリカ文化の受容(1)――『旬刊ニュース』の場合

戦中に国策報道写真体制に順応してしまった写真報道界は、主体性を確立しなければならないと考えたに違いない。まず終戦直後の1945年後半に現れたのは、ここ数回(53回~56回参照)にわたって見てきたように、戦争の真実を明らかにし、軍国主義を糾弾する写真報道だった。
さて、その次に、どのように展開したのかというと、ふたつの路線があった。
ひとつは、民主主義とアメリカ文化の紹介という路線だ。
終戦の翌年、46年1月から区切りよくスタートした雑誌は多い。以前に大衆月刊誌『ホープ』(実業之日本社、46年1月創刊)を取りあげたことがある(25回~29回参照)。グラフページに力を入れた『ホープ』は、当初は民主的傾向が強く、アメリカ雑誌からの転載記事も多かったが、数年のうちにグラフページを半分つぶして漫画を掲載するなど、娯楽雑誌・風俗雑誌路線へと、急速に舵を切ってしまった。
同時期に創刊されたグラフ系雑誌でも、『ホープ』と同様のことが起こっている。
まず民主主義とアメリカ文化を紹介する雑誌の例として、『旬刊ニュース』(東西出版社、46年1月創刊、月3回刊、A4判、本文32ページ、オフセット印刷)と、『世界画報』(世界画報社、46年1月創刊、月刊、B5判、本文28ページ、グラビア印刷)を見てみよう。

『旬刊ニュース』創刊号(46年1月20日)の表紙の題字部分には、まだ「旬刊」の文字はなく、「ニュース」と書かれているだけ。しかし、表紙右下に小さく「(毎月三回発行)」とあり、奥付にも「旬刊」と書かれている。イメージ 1

左:『旬刊ニュース』創刊号(1946年1月20日オフセット印刷)表紙。「表紙写真は旧「明治丸」の甲板上で令名式挙行中のマ元帥夫人。船はアメリカ第七騎兵連隊赤十字酒保船として再出発した」(マ司令部提供)と書かれている。右:『旬刊ニュース』3号(46年3月10日、オフセット印刷)表紙。表紙写真は、「民主婦人クラブ設立に関して語るマ司令部・ダイク准将と加藤静枝女史」。
 
創刊号表紙左下には「I・N・S・特約世界ニユース」という文字がある。 I.N.Sはアメリカの通信社だ。巻末には、こう記されている。
「全世界に組織網を張って、刻々のニユースを提供するものにA・P(アソシエーテツド プレス)U・P(ユナイテツド プレス)ロイターその他があり日本の各新聞社もそれらによつて世界情報を発表してゐるわけでありますが、その最有力なものの一つがI・N・S(国際通信)であります。本社はニューヨーク市にあり、総支配人はシーモア・バークスン氏、総編輯長はバリー・フアリス氏、極東支局は東京で、支局長はハワード・ハンドルマン氏、東京支局長はフランク・ロバートン氏で、この二人は有名なる戦時通信員であります。
本誌はこの国際通信社とハンドルマン氏を通じて特別契約を結び、全世界の通信網から刻々と電送、又は航空便に依る直接通信を受け、本誌独特の生きた世界ニユースを読者に提供するのであります。従つてI・N・S・特電と書きましたものは本誌以外には読者の目に觸れないわけであります」(「I.N.Sとは?」『旬刊ニュース』創刊号、46年1月20日)。
実際に創刊号の記事を見ると、巻頭のグラフ記事「アメリカ人の夢」は「マ司令部提供」であるし、「合成樹脂の話」は『LIFE』の記事の翻訳である。もちろん、「マ司令部」とはマッカーサー司令部、すなわち連合国最高司令官総司令部GHQ)のことである。「I・N・S特電」の文字が躍る記事は、女優のピンナップや、ほとんど写真を使わない記事(「世界ニュース」や「ヨーロッパ首都の希望と現実」)などに多い。3号(46年3月10日)にも、『LIFE』の記事の翻訳があり、「写真はライフ誌より」としている記事も多い。グラフ記事「カリフォルニヤの生活」の写真は、複写によってすっかり諧調がなくなってしまっているが、もともとは『LIFE』45年10月22日号に掲載された、13ページにわたる大きな記事「THE CALIFORNIA WAY OF LIFE」の抄録である。7号(46年4月30日)になると、I.N.S以外の通信社の素材(サン=アクメ提供など)も増える。つまり、初期の記事では、GHQや各通信社提供の写真を使い、『LIFE』をお手本にしてアメリカ文化を紹介しているが、そのため、バタ臭い印象が強い。
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左:「ホリウッド通信」『旬刊ニュース』3号(46年3月10日、オフセット印刷)。「I・N・S・特約本誌特電」とある。写真は女優の卵、ジーン・ピーター。この号から、用紙が白くなった。右:「アメリカ人の夢」『旬刊ニュース』創刊号(1946年1月20日オフセット印刷)。目次によると「マ司令部提供」だという。
 
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左:「カリフォルニヤの生活」『旬刊ニュース』3号(46年3月10日、オフセット印刷)。右ページが「年収三千弗―ある消防夫の生活―」で、左ページが「年収一萬弗―或セールスマンの家―」。当時のオフセット印刷はインキ濃度が上がらないことが一目でわかる。右:「カリフォルニヤの生活」のもとになった記事「THE CALIFORNIA WAY OF LIFE」『LIFE』45年10月22日号(活版印刷)。
 
この『旬刊ニュース』は、「旬刊」と称しながら、平均して2か月に3回くらいしか刊行できなかった雑誌である。定価は、創刊号(本文32ページ)が1円50銭、3号(本文32ページ)が2円50銭、7号(「陽春増大号」、本文40ページ)が4円と、すさまじいインフレだ。その後も、7円、10円、12円、20円、25円、30円、35円と上がり、創刊から3年弱の48年末には40円になる。3号巻末の定価引上げを告知する「御挨拶」は、「本号から全頁純白の良質紙を使用することにしました。これだけでも私たちは多大の犠牲を払つてゐるのです」と記している。確かに、真っ白な本文用紙(厚み0.07ミリ)は他誌に見られない特徴だが、ここでは、オフセット印刷で刷られていることに注目したい。同時期のグラフ系雑誌では、本文をオフセットで印刷した例は、他には『週刊サンニュース』(3回~21回参照)くらいだ。オフセット印刷はインキが盛れないと言われていた時代で、文字も今ひとつ真っ黒にはならない。その分コントラストを高く見せるためには、白い用紙に印刷するのが効果的だ。
また製版工程から考えると、オフセット印刷の有利さは、『朝日新聞縮刷版』のように、もとの新聞を製版カメラで撮影するような単純な仕事において、一番生きてくるものである。しかし、『旬刊ニュース』のように、本文を活版で組み、その清刷を貼り込んで台紙を作製して撮影し……というスタイルだと、製版工程が複雑になるから、活版印刷グラビア印刷に対して、優位性はあまりない。3号の「社内ニュース」に、編集部の仕事の様子が見える。
 
「★今日はどんなお仕事つて母が尋ねますので、わたし、正直に、「一日中、鋏と糊と物差しを持つて暮しちやつたわ。校正刷をチョキチョキ切つては、寸法を測つて、割付用紙に糊で貼りつけるの。つまんないわ」とこぼしましたら、どうでせう――。「お嫁に行つて、お障子の継ぎ張りする時、どんなに助かるか知れなくつてよ。今から精出して、覚えてお置きなさい」ですって?(編輯部青木)」(「社内ニュース」『旬刊ニュース』3号、46年3月10日)。
 
このような製作工程は、『週刊サンニュース』や、のちの「岩波写真文庫」(50年~58年)とほぼ同じである。「岩波写真文庫」は活版印刷だったが、文字専門の印刷所・精興社で組んだ清刷から凸版をつくり、写真版と組み合わせて、写真専門の印刷所・半七写真印刷工業で刷られていた。戦前から写植(写真植字)は実用化されてはいたが、戦後すぐの段階では、本文まで写植で文字組みしてオフセットで印刷した雑誌は、一部の科学雑誌(たとえば『動く実験室』少年文化社)に限られるようだ。理科系の著者は、完全原稿で入稿する完璧主義者が多いから写植使用も可能だが、大幅な訂正によって文字組みが動くときには、『旬刊ニュース』のように活字での組版のほうが有利である。
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左:『旬刊ニュース』7号(46年4月30日、オフセット印刷)表紙。右:『旬刊ニュース』26号(47年5月20日オフセット印刷)表紙。モデルは、ラナ・ターナ嬢(M.G.M)。
 
『旬刊ニュース』は、創刊1年後には、日本人作家による読み物(時評、コント、探偵小説等)中心の内容になり、アメリカ文化と世界情勢の比率が下がる。最後の頃(通巻55号、49年5月10日で終刊か?)には、煽情的な白人女性の写真を表紙に載せた実話雑誌・風俗雑誌という位置づけになり、用紙も粗悪で、本文の前半はオフセット印刷、後半は活版印刷になっていた(4回参照)。