戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

26回 「平凡」に徹する大衆雑誌『ホープ』の1946-47年

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ホープ』(実業之日本社)が創刊された1946年1月は、終戦後初めて迎える新年であり、区切りよくここからスタートしようという雑誌が集中して、創刊ブームとなった。『世界』(岩波書店)、『展望』(筑摩書房)などの硬派総合月刊誌も、このとき創刊されている。
ホープ』は、表紙は『LIFE』風であるが、製本は針金による平綴じなので、中綴じのグラフ誌のように、大きく開くことはできない。前回紹介した画像は、針金のところで破れて、ぱっくりと開いてしまったものである。表紙用紙はしっかりした紙だが、厚みは0.12ミリで、手触りで感じるほど厚くはない。グラビア用紙は0.08ミリ、ふんわりした本文活版用紙は0.12ミリ。
当時の雑誌は活版ページだけのものも多く、口絵があってもせいぜい8ページどまり。だから、『ホープ』のように、本文64ページのうち、口絵グラビアが16ページというのは異例である。しかし、創刊号には、グラビアページについての特段の記述は見られない。「編輯者のメモ」で、編輯兼印刷人の尾崎八十助は、まず「終戦と同時に新しい雑誌を夢みた」と書き始める。「われわれは」、「豊かな食糧は勿論だが、温かい楽しい生活の潤ひと、静かな内省にはじまる自覚に餓へてゐる」。「却つて難かしいのは平凡の良さを知ることであらう」。「誰もが平凡の中に安住できさへすれば、幸福な人間が、よい社会が、立派な国家が生れるに違ひない。我々はかゝる平凡の中のトツプに坐るやうに努力しよう」と、「平凡」に徹する気構えを訴えている。
この編集方針は、特別に個性あるものではなく、大衆雑誌である、と宣言しているに過ぎないようにも見える。第10号(46年11月号)の「編輯後記」では、「新しい大衆雑誌の型を求めて出発したこの雑誌が皆さんの心に清新な凉風を贈り得たならば幸です。創刊以来、多大の犠牲を費して設けた豪華なグラビヤの頁も、いよいよ本格的活動の時期にはひりました」と、グラビアページに力を入れてきたことを述べているが、じつはこれがグラビアページについて初めてのコメントだ。
ホープ』は、1年目の46年に、5月号を欠号にして11冊刊行された。創刊号のグラビアページには、前回述べた通り、「アメリカ兵の一日」という6ページの記事が載り、3月号には「聖路加病院(アメリカ第42陸軍病院)」、11月号には「ソ連の兵隊」と、進駐軍を扱ったものが目立つ。その一方で、「街の民主化!?」(2月号)、「興行街復興」(11月号)などの社会状況を写したものから、「或る日の東宝撮影所を歩るく」(9月号)、「T・D・Aの楽屋裏 或る日の日劇」(12月号)などという芸能ネタまで、幅ひろく真面目にとりあげている。
しかし、大衆雑誌として間口を広く見せるには、『LIFE』風の外観は格調が高すぎ、地味すぎたのだろう。2年目の47年1月号から、表紙はカラー印刷(5色オフセット印刷)になって、『LIFE』風デザインに別れを告げる。

画像は上から、 А崟始加病院(アメリカ第42陸軍病院)」(グラビア印刷、撮影:仙波巖)『ホープ』1946年3月号、◆А岼燭詁釮療貶?1峠蠅鯤發襪」(グラビア印刷、撮影:武田高一)『ホープ』46年9月号、:『LIFE』の半分の大きさの『ホープ』46年12月号(『LIFE』風表紙の最終号、撮影:吉田潤)と47年1月号(カラー表紙の第1号、撮影:青木和夫)、ぁ裏表紙にも写真と広告を配した『ホープ』47年2月号(オフセット印刷、表紙撮影:青木和夫)。