戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

2010-05-01から1ヶ月間の記事一覧

53回 『LIFE』に掲載された「KAMIKAZE」

「大東亜戦争」に負けて、それまでの価値観からガラリと転換する。 敗戦を乗り越えて、戦後まで生き延びた雑誌は、新聞社系に多い。 毎日新聞社の週刊誌『サンデー毎日』は、1940年秋にB5判の「新体制規格版」になり(37回参照)、43年2月から45年末まで『週…

52回 「断ジテヤレ」――『写真週報』最終号

A3判8ページだった『写真週報』は、366号(1945年4月11日)からA4判16ページになる。用紙の厚みは0.12ミリで変わらないので、紙の使用量自体が減るわけではない。しかし、判型を半分の大きさにすることで、製版フィルムの有効利用や運搬の容易さなどに、メリ…

51回 3月10日の東京大空襲(3)

1945年3月10日の東京大空襲について『写真週報』が初めて報じたのは、3月28日発行の364-365合併号だった。『写真週報』は、総花的構成の『アサヒグラフ』に比べると特集主義で編集されている。A3判時代の『写真週報』は表紙とも8ページ(裏表紙は漫画と雑報…

50回 3月10日の東京大空襲(2)

1945年3月10日未明の「帝都空襲」被害を報じた『アサヒグラフ』の3月21日号には、漫画家・横井福次郎による「ルメーの教へたこと」が掲載された。書き出しは「ルメーの第一回東京夜間爆撃をうけて、残念ながらわが家は灰燼に帰したが、どつこいむざむざと只…

49回 3月10日の東京大空襲(1)

実際的な記事を掲載していた『日本写真』(日本写真公社)は、『写真雑誌の軌跡』(JCIIライブラリー、2001年)によると、1944年9月号で休刊になっている。手元には8月号までしかないので、突然の休刊の理由はわからない。業界内の理論誌として特化しすぎて…

48回 情報局に写真宣伝協議会を設置

海外向けと国内向けの国策写真の「指導」と「実践」を担う日本写真公社(旧・写真協会)が発行する月刊誌『日本写真』(1944年5~9月号?)に資料的価値を感じるのは、他の雑誌ではあまり目にすることのない組織・機構の話が、実際的な書きぶりで、記事にさ…

47回 大日本写真報国会と財団法人日本写真公社

1943年後半に起こった写真団体統合の流れは、「大日本写真報国会」の発足で決着する(『写真科学』43年11月号での「誤報」については45回参照)。『写真科学』44年5月号は、発会式の日を44年3月28日としているが、『日本写真』や『朝日新聞』は、3月29日と報…