戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

47回 大日本写真報国会と財団法人日本写真公社

1943年後半に起こった写真団体統合の流れは、「大日本写真報国会」の発足で決着する(『写真科学』43年11月号での「誤報」については45回参照)。
『写真科学』44年5月号は、発会式の日を44年3月28日としているが、『日本写真』や『朝日新聞』は、3月29日と報じている。
『日本写真』44年5月号によると、写真8団体(日本報道写真協会、日本写真会、日本写真家協会、日本写真文化聯盟、日本写真技術家聯盟、東京写真研究会、興亜写真報国会、全日本写真聯盟)が3月25日に解散し、「大同団結」して、3月29日に「大日本写真報国会」が発足。「約一歳に及ぶ陣痛の悩みも消えて目出度く全国三万の写真人打つて一丸とする」と書かれているように、発足に至るまで、相当難航したようだ。会長は村田五郎(情報局次長)、理事長は成澤玲川(朝日新聞社)であり、事務所は財団法人写真協会[のちの財団法人日本写真公社]に置かれた。役員名簿を見ると、金丸重嶺、鈴木八郎、松野志気雄、渡辺義雄、井深徴、梅本忠男、木村伊兵衛、塚本閤治、野島康三、福原路草、安河内治一郎、吉川富三といったように、実際的な報道写真を仕事にしている者、写真技術教育者、写真雑誌編集者、芸術写真作家、肖像写真家まで、写真界の幅広い人材が集まっている。イメージ 1
「大日本写真報国会」の発足を伝える『日本写真』1944年5月号(写真協会、活版印刷。以降毎月、「大日本写真報国会の頁」を設けて、会の活動の様子を掲載する。
 
発会式翌日、44年3月30日の『朝日新聞』は、「全日本写真聯盟ほか非職業写真団体が今回統合し、新たに大日本写真報国会を結成することとなり、その発会式が二十九日午後二時から翼賛会講堂で行はれ、今後は翼賛会の外郭団体として技能報国と軍事援護に邁進することを誓つた」と記す。この記事で注目すべき点は、「非職業写真団体」と規定していることである。たしかに、大日本写真報国会の規約(『写真科学』44年5月号、『日本写真』44年6月号掲載)を読めば、アマチュア写真家を対象としていることが明確だ。たとえば第四条は、「本会は前条の目的を達成する為左の事業を行ふ 一、軍人援護事業への協力 二、防諜への徹底的協力 三、写真人の錬成 四、其の他国策貫徹への協力に必要なる事業」と定めており、実際的な国策報道写真の作製ではなく、周辺・周縁的な事業に限定しているのだ。イメージ 2
「大日本写真報国会の頁」『日本写真』44年6月号(日本写真公社、活版印刷)。会の規約が掲載されている。また、「臨時措置 軍人援護強調運動奉仕」の項では、「四月二十四日より開始される軍人援護強調運動に対する慰問撮影計画は、本会発足、日未だ浅く支部設置準備未了のため」、旧団体支部が旧会員を動員して行なうことが記されている。
 
では、本当に実際的な仕事をする「職業写真団体」は、どこにあったのか。
大日本写真報国会の事務所が置かれた財団法人写真協会が、財団法人日本写真公社に改組されることは、まず『日本写真』の44年6月号で告知されていた(前回参照)。7月号には、「写真宣伝の中枢機関 日本写真公社の発足――新機構と陣容決る――」という記事が載る。6月29日に、第1回役員総会を開いたという内容である。以下に引用する本文記事から、この日本写真公社の性格がわかる。
「新公社は、名実共にわが国写真宣伝の中枢機関として、今後指導に実践に真摯な活躍を展開するが、対欧州へは「空飛ぶ弾丸」として、大東亜戦の戦果速報に貢献した伯林支局への電送写真をより活発化する他起ち上る大東亜共栄圏へは従来の写真定期通信に加へて、天然色写真、漫画、全紙六倍大展示写真その他写真月報、現住民小国民学校用教材「写真日本」フイチヤア通信等、写真を媒体とする活発なる宣伝啓蒙戦を展開、また国内に対しては、戦ふ銃後の羅針盤として絶讃を博する情報局発行「写真週報」の写真製作を始め、グラフ叢書、各種の国策写真展、写真幻燈、写真紙芝居、写真移動展等々、新構想による「写真も兵器なり」の実践を躬行して総力戦への有力なる一翼を担当することゝなつた」。
記事に掲載されている、日本写真公社の評議員のリストを見ると、実際に国策報道写真や対外宣伝雑誌などに携わっている組織の役員の名前がずらりと並んでいる。たとえば、「国際文化振興会専務理事 伯爵 黒田清」「山端写真科学研究所々長 山端祥玉」「国際報道工芸株式会社専務取締役 飯島実」「東方社理事長 林達夫」「日本移動展協会専務理事 山田長司」「日本幻燈株式会社取締役 松本俊一」といった面々である(大宅壮一の名も一番最後に見える!)。また、専門委員には、新聞各社と同盟通信社の写真部長の名前が並んでいる。イメージ 3
「写真宣伝の中枢機関 日本写真公社の発足――新機構と陣容決る――」『日本写真』44年7月号(日本写真公社、活版印刷
 
本文記事は、大日本写真報国会との連繋についても記している。
「なほ、当公社発行に係る月刊雑誌「日本写真」は、大日本写真報国会(当社丸の内分室内)と緊密なる連繋の下に、戦ふ写真人の育成指導に当り、また全国に配置した撮影嘱託網と共に、報道写真家への連絡部門も新設して写真戦士の総動員態勢を確立、技術部門についても、天然色研究室を特設して、これが研究普及に当ることゝなつた」。
つまり、日本写真公社という組織は、実際的な「写真宣伝」の仕事を担う一方で、大日本写真報国会を指導する立場にあったことがわかる。
そこで、日本写真公社が写真製作を担当する『写真週報』344号(1944年10月25日)から、大日本写真報国会による慰問写真撮影の記事「写真が結ぶ前線銃後」を見てみよう。写真で見る内容は、『報道写真』44年2月号の「軍人援護と写真」(43回参照)と大筋は変わらない。大日本写真報国会では、「数年来軍事保護院の指導の下に、写真慰問を続け、既に何十万枚かの家族の写真を戦地に送つた。これを受け取つた兵隊さんたちの喜びに満ちた感謝状は、本部の倉庫にうづ高く山をなしてゐる」と枚数を挙げているが、これはあまりに大雑把すぎる数字だ。イメージ 4
「写真が結ぶ前線銃後」(『写真週報』344号、1944年10月25日、グラビア印刷)。「これは軍人援護に盡す『戦ふ写真』の微笑ましい一面である」と記されているが、すでに戦局は「微笑ましい」などという状況ではなくなっていたはずだ