戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

46回 「書物も弾丸だ」――出版事業整備要綱

残っていた月刊の写真雑誌のもうひとつは、『報道写真』である。1944年3月号の「編輯後記」で、「なほ本誌は五月号より「日本写真」と改題し、唯一の写真綜合雑誌として新発足をするが、その準備の為四月号は休刊とする」と告知している。
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『報道写真』1944年2月号と3月号表紙(いずれも財団法人写真協会、B5判、活版印刷)。表紙用紙が、2月号は上質紙、3月号はコート紙なので、インキの乗りが違うのが一目瞭然である。2月号では、雑誌名の表記は右から左へ、発行所名は左から右へと、方向が逆になっている。
 
3月号の『報道写真』は本文70ページだったが、5月号の『日本写真』は本文60ページで、1割以上の減ページである。その上、6月号の『日本写真』から、発行元の財団法人写真協会は、財団法人日本写真公社と名称を変更する。6月号巻末の「編輯室」には、「写真協会も国内態勢整備強化の方策に対処して、その名称を日本写真公社と改めた。内外に対する写真宣伝の中枢組織として今後の活躍は全写真界の為に大いに期待されるものがあらう」と記されている。
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『日本写真』44年5月号表紙(財団法人写真協会、B5判、活版印刷)と6月号表紙(財団法人日本写真公社、B5判、活版印刷)。
 
なおかつ6月号「社告」では、「「オリエンタル・ニユース」並に「写真と技術」は出版事業の企業整備に即して、此度夫々の発行元東洋写真工業株式会社と富士フイルム工業株式会社から、財団法人日本写真公社に献納された」と、小さな2つの雑誌が『日本写真』に合併されたことを告げている。
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「社告」『日本写真』44年6月号(B5判、活版印刷)。「オリエンタル・ニュース」と「写真と技術」が『日本写真』に合併されたことを告げている。
 
さて、ここ数回にわたって、『アサヒグラフ』『写真週報』『同盟グラフ』『写真文化』『報道写真』の改題や体裁の変更、統合などを見てきた。これらの動きの背景には、出版社・雑誌の統合と、写真団体の統合という、大きな流れがある。
 
出版社統合の流れは、43年11月4日に「出版事業整備要綱」の決定だ。「整備」というが、実体は出版社統合の強制である。
「出版事業整備要綱」を伝える11月5日の『朝日新聞』1面記事は、「出版業の国家性昂揚 決戦即応、整備要綱決る」という見出しを掲げている。
「政府は四日の繰上閣議に「出版事業整備要綱」を附議、天羽情報局総裁より内容を説明ののち決定した、右要綱は戦局苛烈なる現情勢に鑑み、国家の綜合戦力増強の見地より出版事業をしてこれが公的性格を明確ならしめ、出版事業における人的物的両面の総力をあげて皇国文化の発揚と戦意の昂揚をはかり、内に戦力を増強し、外に対外宣伝の強化完璧を期する目的のもとに出版決戦体制の確立を期せんとするものである」。
同じ11月5日の『朝日新聞』3面の解説記事には、「書物も弾丸だ 「実績」にとらはれず「性格」で整備 出版界の〝戦時決定版〟」という見出しがつく。記事の書き出しは、「別面所報のやうに「出版事業整備要綱」が、四日の閣議で決定した、しかしこれは単に出版業者を減らすための措置ではなく、真に書物も弾丸だ!との見地から、出版界そのものに秩序と体系を与へ、企画力も実践力もあり、しかも公的性格の出版所のみにしようとするところにある」。
つまり、国策に合致する出版社だけに絞るという建前だが、結論が出るのに数ヶ月かかった。統制団体「日本出版会」で調整され、結論が出たのは、44年春である。
『日本出版年鑑 昭和19.20.21年版』(日本出版協同、1947年)によると、「書籍はその後の追加を含めて大体二〇三名、雑誌は九九六名となり殊に前者は以前の十八分の一に縮減されるに至つた」という。
前述の『日本写真』(『報道写真』改題)に、「オリエンタル ニュース」と「写真と技術」の2誌が合併されたのは、この流れに沿った動きであった。ちなみに、『写真科学』の版元であるアルスも、兄弟会社であるアトリエ社、玄光社など4社と統合して、北原出版となっていたはずだが、『写真科学』44年9月号を見る限りでは、写真原稿募集の宛先は北原出版、奥付はアルスとなっていて、ちぐはぐだ。