戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

45回 月刊誌も、改題や統合が続く

1944年4月、週刊グラフ誌『アサヒグラフ』と『写真週報』が、同時に体裁を変えて「戦時版」になった前後に、月刊のグラフ系雑誌や写真雑誌でも、改題や統合などが続いていた。
国策通信社である社団法人同盟通信社から刊行されていた月刊の『同盟グラフ』(40年4月創刊、菊倍判、のちA4判)では、44年1月号巻末に、改題の告知が掲載された。「本誌『同盟グラフ』は次号から『大東亜報』と改題いたします。それと同時に、発行を毎月一日十五日の二回発行 体裁をB5判本文四十八頁(総グラビア紙) 定価を一部五十銭(送料二銭)と変更いたします」。
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『同盟グラフ』1944年1月号表紙(A4判、活版印刷)と、『大東亜報』44年2月1日号表紙(B5判、活版印刷)。
 
『同盟グラフ』最終号である44年1月号は、表紙は写真版(活版印刷)だが、定番の赤・墨の2色印刷である。本文72ページのうち16ページがグラビア印刷、8ページがコート紙を使った写真版(活版印刷)で、「グラフ」の名前を持つわりには、写真密度は高くない。『大東亜報』と改題された最初の号(44年2月1日号)は、実際には予告と違い、32ページがグラビア印刷、残りは活版印刷だ。活版ページのインキ濃度は低いが、むらのない印刷である。しかし、グラビアページは、インキが水溶性なのか、目詰まりを起こし、インキの掻き落としがうまくいかずに筋がついたりしている。印刷資材不足を強く感じさせる刷り上がりだ。
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『大東亜報』44年2月1日号のグラビア印刷は、緑色系インキで刷られている(活版は、茶色系インキである)。水性インキを使用したのだろうか、グラビア印刷の本来の調子が出ていない。
 
写真雑誌は、すでに「出版新体制」のなかで、41年1月号から『写真文化』(アルス)、『アサヒカメラ』(朝日新聞社)、『報道写真』(写真協会)、『写真日本』(明光社)の4誌に統合されていた(40回参照)。『写真日本』は41年2月号で休刊、『アサヒカメラ』も42年4月号で休刊となって、残るは『写真文化』と『報道写真』だけだった。
赤・墨の2色印刷の表紙だった『写真文化』が、『写真科学』に改題したのは、少し早く、43年11月のことで、それも突然だった。『写真文化』43年10月号に「『写真科学』の新発足に際して」というアルス社長・北原鉄雄による宣言を載せるが、「この予告なき突如たる本誌の大転換」と書くように、赤い字(印刷も荒い)で急遽印刷し製本に間に合わせたらしく、「編集後記」でも触れていない(改題した『写真科学』43年11月号には、同じ宣言を墨文字で印刷している)。宣言の前ページには、「我々は時局の要請にしたがつて卒(ママ)先、写真をもつて科学戦、生産戦の部門への突撃を開始し、本誌をもつてその指導機関たらしめようとする」とあり、業界の先陣を切りたいという意欲が見える。
戦後になってから、北原は、「十八年になり政府はこの重大危機にあたり文化なんか生ぬるいことを云つている時ではない。よろしく写真をもつて国家に協力せよ、誌名は「写真科学」と改めるよう命令し、もし命にしたがわぬ場合は即時発行を禁止するとのお達しで、止むを得ずその命にしたがい続刊したのであります」(「CAMERA創刊三十五周年に際して」『カメラ』56年4月号)と記しているのだが……。
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『写真文化』43年10月号表紙(B5判、グラビア印刷活版印刷)と、『写真科学』43年11月号表紙(B5判、活版印刷)。
 
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北原鉄雄「『写真科学』の新発足に際して」を掲載する『写真文化』43年10月号(上、活版印刷)と、『写真科学』43年11月号(下、活版印刷)。
 
『写真科学』43年11月号の「『写真科学』の新発足に際して」の次ページには、「日本写真報国会の結成 全国写真団体の一元的統合いよいよ成る」という記事(役職員名簿も見える)を載せているが、これも、業界の先陣を切りたいという意欲の表れのような記事だ。「本号が市場に出る頃には最早各関係官庁側の出席を得て結成式が挙行された筈である」と記されているが、実際の発会式は、数ヶ月先の44年3月29日であり、団体の名も「大日本写真報国会となったのだから、ほとんど誤報記事なのである。12月号を休刊した次号(44年1月号)に、「本誌前号発表の日本写真報国会記事のうち理事氏名は都合により取消し、決定後改めて報告します」とある。12月号休刊の理由も、「用紙の関係で休刊」と記すのみだが、ひょっとすると、誤報記事で先走ったことに対するペナルティーなのか。『写真科学』44年5月号掲載の「大日本写真報国会」名簿によると、北原鉄雄は役員にはなれず、特別会員の中の維持会員の一員である