67回 戦後の『月刊読売』の製本方式と娯楽性(1)
さて、『月刊読売』の戦後復刊(1946年1月)以降の製本方式と娯楽性との関連、それに連動するページの数えかたの変遷について、簡単に俯瞰しておきたい。
戦後の『月刊読売』の歩みは、刊行頻度を上げて、先行する週刊誌『週刊朝日』『サンデー毎日』に追いついていく歴史と言ってよい。1951(昭和26)年4月1日には、「月刊」の名のままで半月刊(月2回刊)となり、1951(昭和26)年11月1日号から『旬刊読売』、1952(昭和27)年7月13日号から『週刊読売』と改題される。『週刊朝日』『サンデー毎日』の対抗馬としての『週刊読売』を、新聞社系週刊誌のなかでは戦記物に強かったな、と記憶している読者は、その前身の『月刊読売』時代も、新聞社系の雑誌として時事情報中心に歩んできたと思い込みがちだ。
しかし、戦後しばらくの『月刊読売』は、必ずしも『週刊読売』と同じ立ち位置で刊行されていたわけではない。読売新聞社は、時事ネタを掘り下げる役割は、『月刊読売』と並行して刊行されていた週刊タブロイド新聞『読売ウイークリー』(1946年5月25日創刊、のちにジャンルを変更し、旬刊グラフ誌の『家庭よみうり』、週刊の『読売グラフ』に発展する)にまかせていた。
『読売ウイークリー』の「創刊のことば」が触れた「週刊紙」の役割・特徴は、先を走る「週刊誌」である『週刊朝日』『サンデー毎日』が、1922(大正11)年からの四六4倍判時代を経て切り開き、確立してきた性格とほぼ重なると言えそうだ。いずれにせよ、読売新聞社は戦後増やしてきた定期刊行物の棲み分けについて、気を使っていたのは確かだ。「読売新聞社の定期刊行物」という広告(『読売スポーツ』1950年8月15日臨時増刊)を見ると、『月刊読売』は、「絵に写真に読物にいずれも第一級の作品を揃えた大衆の友」と記され、こちらは、読み物を重視した大衆向けの雑誌として位置づけられていたことがわかる。
ここでは、平綴じという製本方式を選んだ『月刊読売』の流れをたどり、平綴じならではの柔軟な構成力を活かして大衆娯楽雑誌として花開いた一時期があることに注目したいのだが、その前に、復刊号に触れておこう。
戦争末期の『青年読売』休刊号(第3巻第4号)と同様に、中綴じ製本で刊行された『月刊読売』1946(昭和21)年1月復刊号(第4巻第1号)は、1945(昭和20)年12月18日の『読売報知』で、「廿日発売一月号八十銭」と予告された。巻頭に口絵はなく、「巻頭言 新らしき出発」と「目次」が掲載されたページから始まっている(このページの画像は、前回の本ブログに掲載したが、ノンブルは「5」と振られている)。
そして、中綴じ製本中央の20ページと21ページの間に、ひと目で平綴じ用レイアウトとわかる(ノドに、針金綴じのための約9ミリ幅の余白をつけている)グラビア4ページ分が綴じられて、針金が1か所見えている。20ページから始まる記事は、上3段分が鈴木茂三郎「財閥と青年」、下2段分が中川善之助「婦選の良心」で、20~21ページの見開きでレイアウトされている。その見開き記事に割り込む形で、グラビア4ページが挿入されているのだから、いかにも不自然だし、読みにくい。戦中と同様の平綴じを予定し、グラビアは巻頭口絵として準備されていたのが、何らかの手違いで、本文は中綴じ用に面付けされて刷了になり、中綴じ製本のラインに送られたのであろう(表紙は、背幅のある平綴じ用にレイアウトされて、背文字が入れられている)。
戦争末期の『青年読売』休刊号(第3巻第4号)と同様に、中綴じ製本で刊行された『月刊読売』1946(昭和21)年1月復刊号(第4巻第1号)は、1945(昭和20)年12月18日の『読売報知』で、「廿日発売一月号八十銭」と予告された。巻頭に口絵はなく、「巻頭言 新らしき出発」と「目次」が掲載されたページから始まっている(このページの画像は、前回の本ブログに掲載したが、ノンブルは「5」と振られている)。
そして、中綴じ製本中央の20ページと21ページの間に、ひと目で平綴じ用レイアウトとわかる(ノドに、針金綴じのための約9ミリ幅の余白をつけている)グラビア4ページ分が綴じられて、針金が1か所見えている。20ページから始まる記事は、上3段分が鈴木茂三郎「財閥と青年」、下2段分が中川善之助「婦選の良心」で、20~21ページの見開きでレイアウトされている。その見開き記事に割り込む形で、グラビア4ページが挿入されているのだから、いかにも不自然だし、読みにくい。戦中と同様の平綴じを予定し、グラビアは巻頭口絵として準備されていたのが、何らかの手違いで、本文は中綴じ用に面付けされて刷了になり、中綴じ製本のラインに送られたのであろう(表紙は、背幅のある平綴じ用にレイアウトされて、背文字が入れられている)。
さて、『月刊読売』1946年1月復刊号は、間違って中綴じ製本ラインに送られてきたと気がついた時点で、本来の平綴じ製本のラインに回し、体裁は少々悪くても、本文32ページ1台の前に口絵をつけて平綴じの体裁にすることは、技術的には可能だったはずだ。しかし大日本印刷には、1946年1月号からスタートする雑誌の仕事が次々に持ち込まれ、スケジュールが満杯になっていたに違いない。規模が大きい分、小回りが利かない。発売日を遅らせずに刊行する解決策は、このように口絵を中央に綴じてしまう、というものだった(石川巧『「月刊読売」解題・詳細総目次・執筆者索引 増補改訂版』三人社、2014年は、この4ページ分を「付録」として処理している)。