戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

65回 『青年読売』の最終号は、1945年4月1日発行の「第4輯」(1)

時代は少し飛ぶが、1951(昭和26)年7月から1960(昭和35)年12月までの9年半の間、週刊誌の定価30円時代が続いた。
まず、1951年5月1日、新聞・出版用紙の統制が完全に撤廃される。18年後に刊行された『日本雑誌協会史 第二部』(日本雑誌協会、1969年)は、1951年の状況を以下のようにまとめている。
「紙の生産量はますます増大して、優に需要量を満たし得る状態になったため、用紙の割当統制は五月に廃止となり、新しい局面を迎えた。その後高値をつけていた紙価もようやく横這状態を経て値下りを始めた。
出版界はこの好機を購買力を高めるために活用し、雑誌出版の面では定価据置きのまま増頁の施策をすすめる出版社が多かった。
書籍出版の面では用紙の良質化、造本の改善などを行なって、読者サービスを心掛けたため、書籍の売行きもさらに上向き出版界の安定に好影響をもたらした。
この年の書籍・雑誌の出版量は前年比でみると、書籍の総冊数は一割増加、雑誌総発行部数も一割増を記録した。
政治的にも経済的にも、また業界の動向の面でもこの年は戦後における最初の転換の年となり、出版界も新しい時代への歩みを確実にすすめていた。」
雑誌の定価は据え置きのままでページ数が増え、発行部数も増えるとは、読者にも出版社にもうれしいことだ。実際に1951年当時の週刊誌――まだ『週刊サンケイ』は創刊前で、『週刊読売』は『月刊読売』という名前だった時代だ――を見ると、『週刊朝日』と『サンデー毎日』は両誌とも発行日が一緒で、1951年7月1日号から同時に定価30円になっている(4月から6月は定価25円、それ以前は定価20円)。定価だけではない。7月1日号のページ数はどちらも、表紙・裏表紙を合わせて56ページである。
のちに『週刊読売』に発展する『月刊読売』は、1951年4月から月2回刊(1日、15日刊)となっているが、このころの定価は、週刊誌と同じ30円である。

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週刊朝日』『サンデー毎日』『月刊読売』の1951年7月1日号。それぞれ定価は30円。週刊の『週刊朝日』『サンデー毎日』は、表紙・裏表紙を合わせて56ページだが、月2回刊(半月刊とも呼ぶ)の『月刊読売』は72ページ。刊行頻度が少ない雑誌は、ページ数が多くないと対抗しきれないと判断したのだろう。また、『週刊朝日』『サンデー毎日』は、用紙の構成が前後対称になる中綴じだが、『月刊読売』は平綴じなので、巻頭の口絵ページを多くして、娯楽の要素を強く打ち出している
 
1951年4月から月2回刊となることを告知する『月刊読売』3月号は、こう謳っている。
「本誌は昨年九月号から定価三十円の「時局娯楽雑誌」として新発足して以来、毎号増刷をつづけながら今日にいたりましたことは、愛読者各位のご支援によるものと深く感謝しております。
ご覧のように本号より建頁を増し、オフセット頁を含めて合計七十二頁の、絶対他誌の追従をゆるさぬ独特の企画を盛って各位のご愛顧に応えることといたしました。
けれども、内外の情勢、時局の変転、日をおつて眼まぐるしい昨今、本誌はその役割の重大さを痛感し、一層各位のご声援に応えるために、敢然、四月より一日号、十五日号の月二回の画期的発行を行います。
ザラ紙はマル公〔丸の中に公=公定価格〕の二倍、仙花紙は三割と暴騰して、業界多難が伝えられていますが、本誌は増ページ定価据置きのまま、更に本社のあらゆる新聞通信網を活用して、世界情勢、時局問題、生活、娯楽と…………一切の情報と話題を百パーセント提供して、各位のご期待に添いたいと思います。
この機会に愛読者各位の旧倍のご支援とご教示を切にお願いしてやみません。                                                                                            月刊読売編集部」
なるほど、『日本雑誌協会史 第二部』が俯瞰してみせた構図はじつに的確で、1950年9月から定価30円だった『月刊読売』は、誌名はそのままで月2回刊に移行する直前の1951年3月号から、定価据え置きで増ページ(表紙・裏表紙を合わせて60~62ページであったのを、72ページに増やす)を敢行していたのである。
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次号より月2回刊になることを告知する『月刊読売』1951年3月号(第9巻第3号)。

さて、『月刊読売』については、石川巧『「月刊読売」解題・詳細総目次・執筆者索引』(三人社、2014年1月31日発行)という労作があるのだが、残念なことに、「総目次」のなかに定価がリスト化されていないので、現物に当たらない限り、定価の変動が見えない。それだけでなく、この総目次では、表紙に印刷された文字・数字の拾いかたに統一性がない。たとえば、1951年7月1日発行の第9巻第11号については、「七月一日号」と表紙の文字を拾っているのに、戦中の第1巻第2号については、「昭和18(1943)年6月18日発行」と奥付発行日を記すのみで、表紙に印刷された月号を示す「7」については記していない。6月18日という中途半端な発行日の号が7月号であると推測できるのは、「七月の警告」という記事名だけだ。とくに、その前の5月20日(表紙には5月18日と記載)発行の第1巻第1号では現物に当たってみても、表紙には「創刊号」とだけあって、6月号だと推測できるのは、同じく「六月の警告」という記事名のみ。自信をもって6月号だと言い切れるのは、第1巻第2号以降の表紙に「7」「8」「9」……と印刷されているからなのだから、この数字を拾っていないのは、残念なことだ。
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『月刊読売』1943年6月創刊号(第1巻第1号、5月20日発行)と7月号(第1巻第2号、6月18日発行)。

また、各号の目次がどのページに掲載されているのか、「総目次」では明らかにしていない。そして、校正作業に時間をかけていないらしく、誤植が目立つ。扉裏の「凡例」には、「本書は「月刊読売」創刊の1943(昭和18)年5月号から――中略――「旬刊読売」1952(昭和27)年7月号までの」となっている。創刊号は「6月号」、『旬刊読売』の最終号には「7月1日号」と訂正の赤字を入れたくなる。そのほかにも、口絵ページのグラビア印刷オフセット印刷を区別せず、「グラビア」と表示しているのも気になるが、この時点では、プランゲ文庫マイクロフィルムにしか当たっていない号もあるようなので、我慢すべきなのだろう。しかし、グラビアからオフセットへの印刷方式の変化は、記事内容の変化を伴うのが普通で、大衆雑誌においては、報道要素の強いグラフ記事が娯楽要素の強いマンガへ置き換わっていくのと連動することが多いから、出版史にかかわる本としては区別をしてほしいものだ(本書には2014年12月25日発行の「増補改訂版」があり、誤植などは、かなり修正されている)。
もっと残念なことは、この本の「解題」では、『月刊読売』から改題された『青年読売』が、1945(昭和20)年3月号(第3巻第3号)で終わったと、ほぼ断定していることだ。『月刊読売』と復題した戦後復刊号(1946年1月1日発行、第4巻第1号)の「巻頭言 新らしき出発」文中の「去る四月休刊の止むなきに至つて今日に及んでゐる」を、無理やり「4月号から休刊になったと解釈」しているのであるが、その根拠は、「現段階において第3巻第4号が刊行された痕跡はどこにもない」からだという。
そこで、私としては、最近入手した『青年読売』第3巻第4号(1945年4月1日発行)を紹介しなければならない。手元にある1945年1月号、2月号の表紙には、月号を示す「1」「2」があるが、第3巻第4号には「4」(月号)ではなく「4輯」と印刷されていることに注目してほしい。
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1945年刊行の『青年読売』。左から第3巻第1号(1月1日発行)、第3巻第2号(2月1日発行)、第3巻第4号(4月1日発行)。「1」は1月号、「2」は2月号の意味だが、「4」は4月号ではなく「4輯」と印刷されている。

次回は、この「第4輯」と空襲下の印刷所について考察をしたいが、『月刊読売』『青年読売』を集めるなかで、一番印象に残ったのは、アメリカへの憎しみが直接的に表現されている1944年10月号の表紙だ。それは、星条旗に短刀を突き立てようとする絵柄で、本ブログの「52回 「断ジテヤレ」――『写真週報』最終号」で記した通り、国が刊行していた『写真週報』でも、滅びの美学に酔うような、奇妙な陶酔感と諦めの感情が流れていた戦争末期に、これほどあからさまな敵意を見せたものは見当たらないように思う。『主婦之友』が表紙や本文の余白に刷り込んだ「アメリカ人をぶち殺せ」「アメリカ兵をぶち殺せ!」「アメリカ兵を生かしておくな!」というスローガンなどが、すさまじい憎しみの表現の例として取り上げられるのを目にするが、それら文字だけの表現に比べ、『青年読売』の表紙の怖さは格別だ。
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左:『主婦之友』1945年1月号の本文左ページの隅に刷り込まれたスローガン。1944年12月号の「これが敵だ! 野獣民族アメリカ」という特集以降、表現を少しずつ変えて続く。右:『青年読売』1944年10月号(第2巻第10号)の表紙。