戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

64回 朝日新聞社の『支那事変画報』と『アサヒグラフ』を比較する

日中戦争開始後、朝日新聞社が刊行した戦争報道グラフ『支那事変画報』(週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊)と、週刊のグラフ誌『アサヒグラフ』は、よく似た雰囲気の表紙だった。
しかし、表紙をめくって本文を見比べると、重要な相違点に気がつく。『アサヒグラフ』の本文中には、小さな広告が割り付けられているのに対し、『支那事変画報』には広告がない(だから、すっきり見える)。つまり、『支那事変画報』は『アサヒグラフ』に似た体裁だが、雑誌扱いではなく、単行本扱いなのだ。
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アサヒグラフ』(特輯支那戦線写真第十二報、1937128日号)のレイアウト。広告は、富士フイルム、オリエンタルなど、写真関係の企業が多い。
 
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支那事変画報第八輯』(週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊、19371122日)のレイアウト。『アサヒグラフ』に比べると、文字が多いが、広告がないのですっきりとしている。写真を斜めに傾けるところは、『アサヒグラフ』に似たレイアウトだ。
 
朝日新聞社刊行の『支那事変画報』で、唯一広告が載るスペースは、裏表紙の内側の面(いわゆる表3)である。記事の一部として、地図や図表のスペースに充てられることもあるが、広告を載せるときは、自社広告に限定している。表3の自社広告の例として、『支那事変画報第四輯』(1937920日)と『支那事変画報第五輯』(1937105日)を見てみよう。
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週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊」の『支那事変画報第四輯』(1937920日、左)と『支那事変画報第五輯』(105日、右)の表3広告。
 
支那事変画報第四輯』掲載の広告では、「アサヒグラフ」という文字ばかりが、大きく目立つ。『北支事変画報』と『日支事変画報』は臨時増刊だから、まだ『アサヒグラフ』の付属物といった存在だ。ところが『支那事変画報第五輯』掲載の広告では、『日支事変画報』(すでに第四輯から『支那事変画報』と改題しているのだが……)と『アサヒグラフ』を対等に並べ、「支那事変写真」を掲載するメディアに、ふたつの流れがあることを矢印で示している。『日支事変画報』バックナンバーの下には、「各輯共再版が出来ました」と記されている。臨時増刊と称しながら、すでに定期刊行が決まっていたのだろう。「永遠に遺る事変戦線写真画報」というコピーは第四輯と同じだが、それに続けて、「第一線で活躍する我が勇敢なる将士の辛苦を偲び感謝するために! 銃後の御家庭に是非各冊を取揃へてお備へ下さい」と、読者の感情に強く訴える宣伝文になっている。また、広告ページの地は日の丸の絵柄になっている。戦後書かれた朝日新聞出版局史』(朝日新聞社出版局1969年)は、「日中戦争が徹頭徹尾、日本の侵略戦争であっただけに、当時これら雑誌の編集に従事していた同人たちの思いは辛いのである」と記すが、広告を見る限り、戦争を支援・肯定する気分がなかった、と断言することはできない。少なくとも、戦争を機に売上部数を伸ばそうという意欲は満々である
これに対して、大阪毎日・東京日日新聞社刊行の支那事変画報第5輯』(1937年9月21日)は、「事変の生きた記録、好個の記念写真帳」と謳って、第1~4輯の広告を本文中に載せているが、18×5センチという小さなスペースで、とても地味である。ちなみに、この広告では本画報の判型(四六4倍判)を「サンデー型」と呼んでいる。
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大阪毎日・東京日日新聞社の『支那事変画報第5輯』(1937921日)本文中に掲載された自社広告。