戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

63回 朝日新聞社と大阪毎日新聞社・東京日日新聞社の『支那事変画報』

『毎日グラフ』が創刊されたのは19487月(創刊当時の表紙ロゴのデザインの変遷については、23回で触れた)。当初は月2回刊。ライバルは、23年創刊のアサヒグラフ』だ。『アサヒグラフ』は、戦争末期に旬刊になった(50回参照)が、476月には週刊に戻っていたし、飯沢匡副編集長によって46年初めから展開されていた諷刺路線も、2年半たって、円熟期を迎えていた。『毎日グラフ』は、刊行頻度においては、先行する『アサヒグラフ』にかなわないが、ライバルの長所を見習いながら、丁寧に製作できるから、内容は充実していた(24回、22回などを参照)。
両誌とも、大新聞社ならではの組織力(全国に張り巡らした支局網と、日刊新聞用の速報力)を前提にしたニュース系の総合グラフ誌で、目指す方向は変わらない。B4判のグラビア印刷だから、用紙にも大きな違いはない。その上、どちらも味つけは諷刺路線だ。
しかし、手に取って記事の組み立てかたを味わってみると、全体の雰囲気・風合いに、かなりの差があることに気づく。『アサヒグラフ』の諷刺が、軽妙洒脱と呼ぶべき繊細なお上品路線であるのに比べると、後発の『毎日グラフ』の諷刺は、駄洒落と地口で爆笑を誘う、骨太でお気楽な大衆路線で、デザインも切れ味がよい。
『毎日グラフ』が、アサヒグラフ』より気楽な大衆向けの気分を発散できたのは、なぜか。その理由は、ふたつあると思う。
ひとつは、24回でも触れたように、伝統的に朝日はインテリ向けで、毎日は大衆向けという社風が定着していたこと。もうひとつの理由は、数年前までの戦争に対する関与の深さの違い、つまり、組織を挙げて戦争に協力したことへの反省の度合いの差からくる、戦後の方針の違い――羽目を外さず慎重に進める朝日と、比較的おおらかな毎日――があるように思える。
朝日新聞社毎日新聞社43年に社名を統合するまでは、大阪毎日新聞社東京日日新聞社)が刊行した、戦中の雑誌の流れを比べると、総合出版社的に雑誌を展開して積極的に売り上げを伸ばした朝日と、いかにも新聞社らしいジャンルから無理に広げずにいた毎日との差が、くっきりとしてくるはずだ。
まず、朝日新聞社はどうか。
日中戦争開始直後の37730日創刊の『北支事変画報』(四六4倍判)は「週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊」と謳う。大阪発行の『週刊朝日』と、東京発行の『アサヒグラフ』という2つの雑誌の増刊を兼ねるという形はめずらしいが、そのため、発行所は東京・大阪を併記した朝日新聞社となっている。しかし、編輯兼発行兼印刷人は『アサヒグラフ』と同様に、東京朝日新聞発行所の星野辰男であり、実質的には『アサヒグラフ』編集部の仕事であったのだろう3輯は『日支事変画報』、4輯からは『支那事変画報』と改題されて、408月まで35輯刊行された。全頁グラビア印刷で、第1輯は表紙とも32ページで25銭。特派員による文字情報が多めだが、レイアウトは通常号の『アサヒグラフ』(表紙とも36ページで25銭)にそっくりである。
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週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊」の『北支事変画報第一輯』(朝日新聞社1937730日)と『北支事変画報第二輯』(815日)。
 
注目すべきは、増刊の『北支事変画報』のスタートと同時に、通常号の『アサヒグラフ』にも、戦争報道の特集ページを毎週掲載するようになることだ。37728日号の表紙には大きく「特輯北支事変画報第一報」と記されるが、これでは、臨時増刊の『北支事変画報』と区別がつかない。4報から「特輯北支戦線写真第○報」、7報から「特輯日支戦線写真第○報」と変わり、9報から「特輯支那戦線写真第○報」(のちには、「特輯」の文字がなくなる)となって、以降39111日号(117報)まで毎号、この文字を掲げる。臨時増刊の『支那事変画報』は、当初はほぼ月2回刊、のちにはほぼ月刊だから、通常号の週刊『アサヒグラフ』と合わせると、月に56冊の戦争報道グラフ誌面を、この時期の朝日新聞社は展開していたのである。
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週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊」の『支那事変画報第四輯』(1937920日)。同時期の『アサヒグラフ929日号には、「特輯支那戦線写真第十報」と大きな赤文字が掲げられ、特集グラフページは全体の過半に及んでいる。
 
対抗する毎日新聞社大阪毎日新聞社東京日日新聞社)が刊行したのは、同じ名の『北支事変画報』(3783日創刊、四六4倍判、グラビア印刷、表紙とも32ページ、20銭)であり、4輯からは、やはり『支那事変画報』と改題する。4112月まで101輯を数えるが、日米開戦を機に改題して、月刊の『大東亜戦争画報』となって454月まで通巻142輯となっている。
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『北支事変画報第一輯』(大阪毎日新聞社東京日日新聞社193783日、四六4倍判)と『支那事変画報第百一輯』(41128日、B4判)。次号の102輯から『大東亜戦争画報』と改題する。
 
朝日系の『支那事変画報』が、2輯から表紙に赤版(グラビア印刷の墨版に対して、赤版はオフセット印刷である)を使って、いかにもプロパガンダグラフらしい体裁になるのに比べ、毎日系の表紙は、ずっと墨版一色で地味だ。毎日系は、ほかには週刊グラフ誌を出していなかったから、朝日系の戦争報道グラフが月56冊に対して、毎日系は月2冊平均ということになる。
むろん、これらの戦争報道グラフは、読者である出征家族にとっては、愛する夫や息子がどこかに写っていないかと待ちわびる出版物であった。『朝日新聞出版局史』(朝日新聞社出版局1969年)は、『支那事変画報』は初刷平均8万部という好成績であり、「印刷すればしただけ売切れるという時代であった」と記している。