戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

59回 『アサヒグラフ』の諷刺路線――副編集長・飯沢匡

1946年からの写真報道は、ふたつの路線に分かれて展開した。そのひとつ、民主主義とアメリカ文化紹介路線の例として、『旬刊ニュース』と『世界画報』を取りあげたが、『旬刊ニュース』は49年に実話雑誌になって終焉。『世界画報』は50年頃(正確な時期不明)に予約購読制の「画報誌」になって消えていった。アメリカ文化紹介の役割は、ティーンエイジャー向き読物雑誌『トルー・ストーリィ』(ロマンス社49年5月創刊)や、シアーズ・ローバック社の通販カタログを切り抜いてレイアウトした季刊ファッション誌『アメリカンスタイル全集』(日本織物出版社、49年9月創刊)などが、娯楽と実用性を伴った形で引き継いでいく。
 
さて、もうひとつの路線は、写真を使った諷刺路線である。諷刺とは、「1.遠まわしに社会・人物の欠陥や罪悪などを批判すること。2.それとなくそしること。あてこすり」(『広辞苑第五版』)である。ときには、批判のトゲを寓意のなかに巧妙に隠したりするから、権力にとっては苛立たしい存在だ。
写真を使った諷刺路線は、民主主義とアメリカ文化紹介路線にくらべると、格段に手の込んだ作業であり、センスと工夫が必要だが、この諷刺路線を切り開いたのが、『アサヒグラフ』である。
『毎日グラフ』については、以前に取りあげた(1回~4回、22回~25回参照)。48年7月創刊という後発の『毎日グラフ』が、のびのびと駄じゃれの世界で遊べたのも、『アサヒグラフ』が46年初めから軽妙洒脱な諷刺路線を展開していて、地ならしをしておいてくれたおかげだ。
アサヒグラフ』の諷刺のスタイルが、当時の副編集長、劇作家・飯沢匡(いいざわ・ただす)の個性と努力によって確立したことは、現在では定説になっている。54回でも簡単に触れた通り、飯沢匡の本名は伊沢紀(いざわ・ただす)で、『アサヒグラフ』の副編集長になったのは、『朝日新聞出版局史』(朝日新聞社出版局、69年)によると45年12月のことだ。飯沢自身は、副編集長を命ぜられたのは、敗戦直後という「価値転倒時代の副産物だったのかも知れない」(飯沢匡『権力と笑のはざ間で』青土社、87年)と書いている。
このころの『アサヒグラフ』は、45年4月以来の旬刊(5日、15日、25日刊)だ。45年は、増刊の大相撲秋場所特別号(12月20日発行、表紙2色印刷、表紙とも28ページ+別冊「秋場所総決算座談会」16ページ)以外は、表紙とも16ページ。表紙は本文共紙で、墨1色のグラビア印刷であった。増ページした46年正月号の表紙(本文とは別に印刷する)に赤色を復活させ、2月15日号以降は表紙とも20ページにして、毎号2色刷りの表紙になる。戦中の朱色(44回参照)よりも暗い赤色を使ってみたり、赤色部分を逆L字型に配したレイアウトや足元の赤い帯、白抜きと墨文字の題字などを試している。最終的には、題字は白抜きで、題字周辺に幅ひろい赤い帯を刷る単純なデザインに落ち着き、赤色も明るい朱色になって、何年も使われる(23回参照)のである。
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左:『アサヒグラフ1946年1月5日号(B4判、表紙とも36ページ、表紙本文とも厚み0. 09ミリ)。右: 46年2月15日号(B4判、表紙とも20ページ、表紙厚み0.13ミリ、本文厚み0.12ミリ)。この号から表紙が毎号2色刷りになる。『アサヒグラフ』が表紙のデザインや色遣いを模索していた時期である。
 
飯沢匡33年に朝日新聞社へ入社。仙台支局から東京本社学芸部、整理部と異動している。41年にラジオの放送劇を書いたとき、NHKの担当者に「印刷しては別人に見え、アナウンサーが発音すると本名のように聞えるという名を考えて下さい」と無責任な注文をしたところ、放送当日の新聞に「飯沢匡」という名が印刷されていた。劇作家としてのデビュー作、喜劇「北京の幽霊」は、43年に国民新劇場(築地小劇場を改称)で文学座によって公演され、次に書いたラジオドラマ「再会」はNHKラジオ賞を受けた。「北京の幽霊」上演に際しての杉村春子の機嫌の悪さを、のちに「疳症の強い杉村のこの悪癖」と、堂々と活字にしてしまう飯沢は、自分自身を「冷血的酷薄人種」と呼んでいる。
飯沢によると、「自由主義者を一掃するという大阪からやってきた重役の号令一下、新聞編集室から出版局に異動されて」、最後は幸運なことに、少年時代からあこがれていた『アサヒグラフ』配属になっていた。44年11月に上演された諷刺劇「鳥獣合戦」は、当時の非合理主義を批判し、戦争は科学の力で終結することを予言する作品だったが、「内務省の検閲課に呼び出され」「散々と油を絞られた」という。飯沢は、「これは童話劇であって、こういう暗い御時世にはこんなものが気分を明くすると思う」と白ばくれた。「諷刺劇というものは他のものに擬らえてあるので実体がつかめない」し、「動かぬ証拠はつかめないものなのである」。こうして、諷刺という武器を使って身を守った飯沢の経験は、戦後のGHQ検閲時代を生き抜くのにも、大いに役立つことになる。
飯沢副編集長の有名な初仕事が、46年正月号(1月5日号)に掲載された4ページ構成の「はつわらひしんぱんいろはかるた」だ。飯沢は、「敗戦後だけに、平和になった正月号には人々に明るい笑いを贈りたかった」(『権力と笑のはざ間で』)と記している。「アメリカをからかいたくなり十分に検閲ということを計算に入れてこの企画を立てた」飯沢は、「い」の「「犬も歩けば棒に当る」という文字のところには、G・I(米兵)がパンパン(売春婦)と共に歩いている写真を載せた」(飯沢匡『武器としての笑い』岩波新書、77年)。「憎まれ子世に憚る」が東条英機、「惣領の甚六」が近衛文麿、「嘘から出た誠」が長崎原爆のきのこ雲、「門前の小僧習はぬ経を読む」がG・Iと話す少年という具合に、戦争を振り返り、敗戦を噛み締めながら、権力を諷刺する内容になっている。
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「はつわらひしんぱんいろはかるた」『アサヒグラフ46年1月5日号(グラビア印刷)の前半。右上の「犬も歩けば棒に当る」は売春婦と歩く米兵、左下の「嘘から出た誠」は長崎原爆のきのこ雲。
 
「ろ」の「論より証拠」の写真にキャプションはついていないが、被爆した広島の空撮写真である(「ろ」の字の左上に原爆ドームがぼんやり写っている)。よほど注意深く見なければ東京あたりの焼跡と区別がつかないし、検閲する側も広島だというキャプションがついていないので、チェックしにくい。つまりこの写真は、わざと広島の文字を入れずに、わかる人にはわかるようにして、禁じられている原爆被害の報道を、しらばっくれて行なったのだろう。「論より証拠」の広島空撮と、「嘘から出た誠」の長崎原爆のきのこ雲は、2枚とも『LIFE』の「WHAT ENDED THE WAR」(1945917日号)掲載の写真がもとになっている。じつは、3か月後の『旬刊ニュース』5号(46330日発行)にも同じ広島空撮写真が掲載されているが、真っ黒につぶれて、ほとんど気がつかないような取り上げられかたである。
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「はつわらひしんぱんいろはかるた」『アサヒグラフ46年1月5日号(グラビア印刷)部分。「論より証拠」にキャプションはないが、被爆した広島の空撮写真(『LIFE』1945年9月17日号掲載)である。
 
また、同じ朝日新聞社から出ていた『週刊少国民』(45年10月14-21日合併号)の表紙写真「進駐兵と日本の少国民―米誌従軍記者フレツド・スパークス氏撮影―」が、「門前の小僧習はぬ経を読む」に使われるなど、新聞社の写真収集力や撮影力が、十分に生かされている企画である。飯沢は、「何といってもこの企画は、写真の場面が物をいうので、よい瞬間を的確に捉えていなくては諷刺は冴えない。また、ついにいわゆる「決定的瞬間」が捉えられなくて、つまらぬ「ありもの」の間に合わせで済ませた部分もあった」(『武器としての笑い』)と書いている。
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左:『週刊少国民45年10月14-21日合併号(B5判、表紙とも20ページ、表紙はグラビア印刷、本文活版印刷)表紙。右:「はつわらひしんぱんいろはかるた」『アサヒグラフ』46年1月5日号(グラビア印刷)の後半。「門前の小僧習はぬ経を読む」に『週刊少国民』表紙と同じ写真を使う。