戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

58回 民主主義とアメリカ文化の受容(2)――『世界画報』の場合

『世界画報』(世界画報社、1946年1月創刊、月刊、B5判、本文28ページ、グラビア印刷は、良く言えば〈信念の雑誌〉、悪く言えば〈独りよがりの観念的な雑誌〉である。それは、民主主義とアメリカ文化の紹介をする一方で、戦争の真実を明らかにし、軍国主義を糾弾する写真報道への、強いこだわりを見せていたからだ。
その強いこだわりは、表紙に記された特集題からもうかがえる。「軍国主義の罪悪」(創刊号、46年1月、定価2円)、「民主化する農村」(2号、46年3月、定価2円)、「救ひを待つ人々」(3号、46年6月、定価2円50銭)、「戦争の実相」(4号、46年7月、定価2円50銭)、「世界は一つに」(5号、46年8月、定価3円50銭)、「欧州解放の記録」(6号、46年10月、定価3円50銭)、「ファシズムの根をたとう!」(8号、47年3月、定価10円)、「希望をわれらに!――危機のありのままの姿――」(9号、47年7月、定価18円)といった具合だ。定価は『旬刊ニュース』同様に、どんどん上がっている。
イメージ 1
左:『世界画報』創刊号(1946年1月、グラビア印刷)表紙。在外邦人引揚の写真のようだが説明はない。
右:『世界画報』8号(47年3月、オフセット印刷)表紙。本文はグラビア印刷。表紙のミス・アメリカの顔写真には「朝のヴイーナス」というタイトル。「輝くひとみ、明るいひたい、その上にさんとして光る冠は〝あこがれ〟の象徴です。ただし政府や大臣が押売りする〝あこがれ〟ではありません」という押しつけがましいキャプションがつく。
 
『世界画報』には、ずっと目次がない。当初はノンブル(ページ番号)もないので、全体の構成が見えない。創刊号を見ると、記事のタイトルのつけかたにも基準がない。見出しなのか、スローガンなのか、区別のつかない大きな文字がところどころに載っている。創刊号の大きな文字を拾うと、「裁かれる戦争犯罪」「信じられない? 信じたくない!」「しかし認めなくてはならない現実だ!!」「軍国主義の悪夢よ!! 消え失せよ永久に!!」「東京の横顔」「日本的民主主義」「婦人参政権と食糧」「軍国主義の残骸」「日本人捕虜の生活」「日常生活に入り込む科学」「薬品界の花形ペニシリン」「巨人起重機」「水中電気鎔接」「白堊の議事堂の内と外」「国民の声の解放」「在外邦人引揚」「移り行く東亜小景」「進駐軍スナップ」「編輯室より」となる。創刊号の用紙は硬く(表紙・本文とも厚み0.12ミリ)、レイアウトも生硬で、アルバムのように単調だ。また、戦争関連の記事と、アメリカ文化紹介の記事が、同じ見開きに脈絡なく並ぶのも奇異だ。
イメージ 2
『世界画報』創刊号本文(46年1月、グラビア印刷)の一例。右ページまでは、「日本人捕虜の生活」という3ページものの記事で、写真にキャプションもつかないが、右下の写真は「尻相撲」に興じる日本人捕虜であろう。左ページは「日常生活に入り込む科学」というアメリカ文化紹介記事。次のページをめくると、「薬品界の花形ペニシリン」「巨人起重機」「水中電気鎔接」という横書きの小見出しのつくグラフ記事が現れるが、それが「日常生活に入り込む科学」の一部分なのか、別の記事なのかは、何度めくってみてもよくわからない。
 
もちろん、号を追ってレイアウトはこなれてくるが、雑誌的な魅力が増してきたとも言えない。「戦争の実相」という特集題を掲げる4号(46年7月)の「戦争の実相」と「処刑」という記事では、洋書から引用して、戦死者や死刑執行現場など、残虐な写真を、これでもか、これでもかと見せる。そういう記事と、アメリカの住宅文化紹介記事が同じ号に載っているという、ちぐはぐな構成は変わらない。残虐な写真をしつこく並べるところは、小平事件の現場写真を載せた当時の猟奇雑誌(『犯罪実話』創刊号、47年7月)のグラフページにも似た雰囲気だ。これでは、家庭に持ち帰っても家族が喜びそうにない。
イメージ 3
左:「小平事件現状写真特報」『犯罪実話』創刊号(畝傍書房、47年7月、オフセット印刷)。「未公開特ダネ大写真グラフ・悽惨身ノ毛モヨダツ」と銘打たれている。本文は活版印刷で、口絵はオフセット印刷
右:「戦争の実相」『世界画報』4号(46年7月、グラビア印刷)。「サタデー・イブニング・ポスト紙に発表し、最近単行本となつて“What it takes to rule Japan”といふ題で発行されたハロルド・J・ノーブル氏の著書の中に掲げられた写真」の引用であるが、『犯罪実話』のグラフ記事に共通する暴露趣味が感じられる。
 
『世界画報』は、創刊当初は刊行頻度についての記載がない。「毎月一回一日発行」と記されるのは、9号(47年7月)から。しかし、3号(46年6月、定価2円50銭)の奥付に「半年十五円・一年三十円」と、月刊を前提とした値段が記されているのだから、当初から「月刊」を目標にしていたのは間違いないし、実際に3号から5号までは月刊で刊行している。ところが、その後は3か月以上続けて刊行できたのは数えるほどで、平均して年7冊の刊行だ。そして、49年後半には予約購読制の雑誌になって、新刊小売書店の店頭から消えてしまっている。創刊以来のB5判を変更して、一回り大きいA4判になった32号(50年5月)の「編集室から」には、「これまで印刷日数がどうしてもかゝりすぎて、ニュースがニュースにならぬのでしたが、営業部の努力で、この号からその日数がぐっと短縮されました。これからはどしどしホット・ニュースを毎号掲載できるものと思います」というコメントと、「次号からは必らず定期刊行を厳守いたします」という決意が掲載されているが、書店の店頭に置かれない予約購読制となっているのだから、時代の感覚をキャッチして鮮度で勝負することからは、すでに撤退していたはずである。また、創刊以来の実績を見る限り、この先もあまり信用されそうにない決意表明だ。
前回取りあげた『旬刊ニュース』は、実話雑誌になって消えていったが、『世界画報』は、当たりさわりない内容の「画報誌」に向かったのである。「画報誌」は、役に立つ教養や世界に広がる目を売り物にするが、速報性を重視してはいない。速報性を求められる週刊グラフ誌とは、ジャンルの違う雑誌なのである(週刊誌の速報性については35回参照)。 
戦争の真実を明らかにして軍国主義を糾弾する『世界画報』の出資者は西園寺公一で、編集人は越寿雄という組み合わせだった。西園寺公一は、元老・公望の孫で、戦後の参議院議員時代には、越が秘書役を務めた。戦前に、やはり越を編集人にして『グラフイツク』(創美社36年創刊、グラビア印刷)という四六4倍判のグラフ誌を出している。『西園寺公一回顧録「過ぎ去りし、昭和」』(91年、アイペックプレス)によると、『グラフイツク』では「中国だけではなく、世界の動きには敏感に反応する編集を心がけていた」という。その後、ゾルゲ事件連座して執行猶予刑を受けた西園寺だから、戦後の『世界画報』で「戦争や政治のことを知らされていなかった大衆に、現実のことを知らせてやろう」としたのは、当然のことである。「戦争で日本の軍隊がアジアでどんなことをしてきたのか、文章だけでなく、写真を使って知らそうと考えた」のだ。もちろん、その信念は間違っていない。しかし西園寺の発想は、大衆は何も知らないという前提に立っている。これでは、送り手側の一方的な押しつけになりがちである。読者を啓蒙してやろうという視線が、『世界画報』を独りよがりの観念的な雑誌にしてしまった。
イメージ 4
左上:左開き横組みになった『世界画報』9号(47年7月、オフセット印刷)表紙。デザイン優先となり、18enとか9gôとローマ字表記される。直接戦争を取り上げることはなくなり、国内・海外の社会問題を扱っている。本文はグラビア印刷
右上:予約購読制の『世界画報』31号(50年2月、オフセット印刷)表紙。本文はグラビア印刷。内容は速報性のないバラエティ記事で埋められている。次号からA4判になるとの告知が載っている。
下:『グラフイツク』9月上旬号(創美社、36年9月1日発行、四六4倍判、左開き横組み、表紙とも16ページ、グラビア印刷)。戦前、西園寺公一越寿雄という『世界画報』と同じコンビで刊行したグラフ誌。これが創刊号かもしれないが、巻号の記載なし。
 

『グラフイツク』9月上旬号(創美社、36年9月1日発行)の「南洋視察団の帰朝報告」(撮影:大宅壮一)。細かく写真と文字が割り付けられているが、大判らしいデザインの魅力に欠けている。
 

『グラフイツク』5巻1号(創美社、40年1月1日発行、四六4倍判、表紙とも40ページ、グラビア印刷活版印刷)の見開き。活版印刷ページを混ぜることで、創刊当初の緊張感は失われてしまった(左ページが活版印刷)。
 
『世界画報』2号の「編輯室より」に、「A・Pとの特約成り、本誌は毎号AP提供の最新海外写真を掲載します」と太字で記されている。海外の写真には、AP以外ではサン=アクメなどの通信社の名が記され、国内の写真には、CIE、サン・フォト、時事通信社、日本ニュース、読売新聞社などの名が見える。次第に田村茂や渡部雄吉が撮影した写真が増えてくるが、これが世界画報社独自の取材であった。

A4判になった『世界画報』32号(1950年5月)の「踊る小さな芸術家」(撮影:渡部雄吉)。