戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

60回 飯沢匡のプライド――『アサヒグラフ』と『婦人朝日』

飯沢匡(本名・伊沢紀)は、「アサヒグラフの副編集長に任命されてから、このグラフ雑誌に没頭した。生れつき視覚型の、何でも具体的に物を把握しないと気がすまぬ私には、まことに打ってつけの仕事であったから、仕事が面白くて仕方がないのであった」(『権力と笑のはざ間で』青土社87年)と書いている。たしかに1946年の初めから、写真のレイアウトも、ピリッとして気が利いたものになっている。

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「危険も公徳もあらばこそ」『アサヒグラフ1946年1月15日号(グラビア印刷)。上の3枚の写真は、それぞれ別の車両を別の角度から撮ったものだが、屋根の線をパノラマ写真のようにつないで、スピード感を表現している。
 
従来タブーだったところにレンズを向けた写真が、たびたび掲載されるのも、この時期の特徴だ。ハンセン病療養所栗生楽泉園を撮影した「わが生を愛す――国立癩療養所を訪ねて――」(46年12月5日号)、和歌山刑務所を取材した「女囚その日その日」(47年新年特大号)、「心を病む群――松沢病院にて――」(47年2月25日号)、「カメラ伊勢神宮に入る」(48年新年特大号)、「カメラ宮城に入る」(48年2月11日号)などがある。
読者が驚くような珍しい写真という意味では、埼玉県川口市NHKアンテナ塔から撮った「東洋一の高塔を攀る――空中写真戦後版成る――」(48年新年特大号)が目立つ。この企画も飯沢が考えたものだが、高所に強い写真部カメラマン船山克が体を張って撮っている。戦中は高所から眺めることさえ禁じられ、占領中は飛行機を飛ばせなかった日本では、空中写真は貴重なものだ10年前の1937623日号で、「完成の日近き東洋一の大放送所」として、完成直前の姿は紹介されていたが、塔に登って撮った写真が発表されたのは初めてだろう
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東洋一の高塔を攀る」『アサヒグラフ48年新年特大号(1月7日発行、グラビア印刷、撮影:船山克)。遠方に富士山が白く見える。高さ300メートルを超す川口市NHKアンテナ塔は37年に建てられ、東京タワーが建つまでは日本一の高さだった
 
しかし、飯沢がつくりだした新しいスタイルは、グラフページだけではない。
46年8月5日号から、編集長の提案で、巻末に冗談と諷刺の「玉石集」(題名は中島健蔵につけてもらった)という2ページの欄をつくったときは、詩人・矢野目源一や近藤東に戯文や諷刺詩を依頼する一方、自分も作家の文章の特徴を調べ、その作家が扱いそうもない題材を使って「文体模写」という知的な遊びに励んだ。ペンネーム「凡阿弥」が飯沢の作のようだが、48年に朝日新聞社から刊行された文庫判の『玉石集』には、ペンネームは記されず、作者の区別はできない。30年後に飯沢がまとめたエッセイ集『武器としての笑い』(岩波新書、77年)に、自作の「文体模写」を『玉石集』から再録していることからも、この仕事への飯沢の愛着の程がわかる。
飯沢は『武器としての笑い』に、「諷刺には日付がある。諧謔には日付がない」、「ユーモアには日付はないがサタイアには日付がある」(satireは諷刺、皮肉のこと)と繰り返し書いている。飯沢が手がけた諷刺は、日付のある笑いだから、雑誌掲載時には読者にストレートに通じたが、時代がたってから読むときは、当時の事情がわからなければ、その妙味が味わえないという意味だ。『玉石集』は、「時代背景を考えながら読む」という姿勢でページをめくれば、今でも十分楽しめるコント集である。
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「玉石集」『アサヒグラフ46年8月5日号(グラビア印刷)。この号から「玉石集」のページが新設された。右ページ上から2段目に「文体模写 羽仁五郎調」(凡阿弥・模)が見える。右は、文庫判のアサヒグラフ編『玉石集』(朝日新聞社、48年、表紙:オフセット印刷)。
 
飯沢が確立した『アサヒグラフ』の諷刺路線は、写真だけではなく、文字や漫画も使った総合的な路線であったところに特徴がある。彼は「生れつき視覚型」と自称していたが、案外他人にはそのようには見えず、理屈屋と思われていたかもしれない。そして、飯沢の諷刺の能力は、社会を捉える批評力や実際的な文章力として評価されていたのではないか。48年12月に、飯沢が『婦人朝日』編集長へ異動(51年11月に『アサヒグラフ』にもどり、編集長になる)したのも、そういう評価の反映のように見える。
朝日新聞出版局史』(朝日新聞社出版局69年)は、飯沢編集長時代の『婦人朝日』について、「きれいで目立つ表紙だったが、内容とちぐはぐな印象を与えた。読者の手記、投稿が多くなったが、全体に大きな変化は見られなかった」と記す。
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飯沢匡が編集長を務めた時期の『婦人朝日』。左上:49年8月号、右上:49年10月号、左下:49年11月号(B5判、表紙:オフセット印刷)。花や葉や貝に囲まれた女性という珍しいデザインの表紙。『朝日新聞出版局史』の筆者も、この表紙に目を奪われて、内容が刷新されたことまでは、気がつかなかったようだ。右下:50年9月号(表紙デザイン:伊藤憲治)。
 
『婦人朝日』に「私の作文」という欄をつくり、文章の書きかたについて啓蒙活動をし、名村笑子や大村しげなどの女性随筆家を育てたというプライドを持つ飯沢は、朝日新聞出版局史』を読んで激怒する。「この人は私に怨恨でもあるのではないかと疑った。なぜなら私は自分なりの婦人雑誌に対する考えをかなり色濃く出して誌面を一新したのである」。「「主婦の友」でもなく、かといって「婦人公論」でもないものを創り出したいと思っていた。いうならリアルな、時代や生活に根ざした借りものでない雑誌がつくりたかったのである」(『権力と笑のはざ間で』)。
『婦人朝日』49年11月号「私の作文」のリード文(飯沢の文章と思われる)の末尾には、こう記されている。「具体的に書くこと、概念的にならないことをくれぐれも忘れないで下さい」。これは、「時代や生活に根ざした」内容を、他人に伝えようとするときの大原則であろう。
飯沢が『アサヒグラフ』で展開した諷刺路線も、「私の作文」と同様、具体的かつ実際的な表現で、読者の気持ちに的確に命中するように組み立てる仕事であった。部員たちに説いた基本姿勢は、「変った視点から現象を把えること」「ひねった角度」「正攻法を避ける」だった