戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

40回 出版新体制――写真雑誌の「防諜座談会」は、架空の記事か?

出版物のサイズが「新体制規格版」に切り替わりつつある1940(昭和15)年10月前後、写真雑誌が一斉に「防諜座談会」という記事を載せる。
記事の題名は、雑誌によって違い、「当局に訊く 防諜座談会」(『カメラ』40年10月号、四六倍判)、「写真と防諜座談会」(『アサヒカメラ』10月号、四六倍判)、「防諜と写真の座談会 時局下の写真人の注意すべき問題」(『フォトタイムス』10月号、四六倍判)となっている。しかし、内容は全く同じで、活字の拾い間違い程度の差があるだけだ。雑誌ごとに別々に速記を起こしたのではなく、同一の原稿をそれぞれの印刷所に渡して組版をしたことが明らかである。
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「当局に訊く 防諜座談会」『カメラ』1940年10月号(四六倍判、活版印刷
 
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「写真と防諜座談会」『アサヒカメラ』40年10月号(四六倍判、活版印刷
 
初級アマチュア向きの『カメラクラブ』(四六倍判)では、読者のレベルに合わせ、わかりやすい質疑応答形式に書き直した3回連載の「写真防諜講座」が10月号から始まる。また、薄いパンフレット状の『オリエンタル ニュース』232号(40年11月1日、表紙とも12ページ、菊判)には、同系列の『フォトタイムス』の記事名に連動した「防諜と写真 時局下の写真人の注意すべき問題」というタイトルの短縮版が掲載されている。
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「写真防諜講座」『カメラクラブ』40年11月号(四六倍判、活版印刷)と、「防諜と写真 時局下の写真人の注意すべき問題」『オリエンタル ニュース』232号(40年11月1日、菊判、活版印刷
 
座談会は、司会役の「編輯者A」が口火を切る。「W少佐」(陸軍省)と「緒方」(内務省外事課内務事務官・緒方信一)、「林」(内閣情報部情報官・林謙一)が、それぞれの立場から説明をするが、どの発言も長い。最後に発言する林謙一が一番怪しい。まず、この座談会が、各写真雑誌に載ることを明かしているからだ。「今まで嘗てない全部の写真雑誌に此同じ記事が載ると云ふこと、それを見て、もう写真機など手にしておられないと心配し出す人が出て来はしないかと私は思ひます」。「そういふ誤解を抱かせては大変です、事実は全然違ひます。国防上有害な物にレンズを向ける事は絶対いけないが、さうでない限り研究も作画も大にやつていただき度いものです」と語っている。しかし、「防諜」のために自由な撮影を自粛しろと言う一方で、国家が必要とする「情報宣伝」に協力するのなら、写真を撮らせてやらんでもないぞ、と語っていることは誤解の余地がない。目前に迫った「戦争」と「空襲」を前提にして、陸軍、内務省、内閣情報部の方針を伝えようとしているのである。
雑誌側出席者が9人ということになっているが、発言しているのは、「編輯者A」から「編輯者D」の4人だけ。『カメラ』の記事では、版元のアルスから高桑勝雄(『カメラ』)、鈴木八郎(『カメラクラブ』)のほかに、北原鉄雄社長が出ていることになっている。しかし、『アサヒカメラ』には北原の名前は見当たらず、代わりに『アサヒカメラ』の小安正直の名がある。そして、『フォトタイムス』は「写真雑誌編輯者一同」とするだけで、人数も名前も明らかにしない。何度読み返しても、編集者側の発言は短く、紋切型の内容である。この記事は、「当局」が作った架空座談会ではないかと思えてくる。
この時代の月刊写真雑誌の発売日は、毎月5日前後。緊急に催された座談会であっても、9月上旬から中旬に行なわれていただろう。そのとき出版界は、すでに「出版新体制」に向けて動き出していて、緊張が走っていたはずだが、この記事の編集者の発言は平板で臨場感がない。出版新体制に取りこまれていったことの衝撃は、戦後書かれた年表での記載行数の多さでわかる。手近なところで『岩波書店五十年』(1963年、岩波書店)を参照すると、6月には、内務省が雑誌創刊を抑制する方針を決定し、警視庁検閲課が各種業界の小新聞紙や雑誌の統廃合を促進。7月26日には内務省が、東京出版協会代表と日本雑誌協会代表を呼び、出版新体制の確立方針を申し渡す。8月3日、内閣情報部新聞雑誌用紙統制委員会が、出版諸団体を解散し、一元的な日本出版文化協会(出文協)に合流させる最終方針を決定。こうして会議を重ねて12月19日の出文協創立に向けて進んでゆくが、縮小・統廃合の方向は明らかだったから、誰もが緊張と不安で一杯だったろう。
『近代日本総合年表第4版』(2001年、岩波書店)の1940年の「社会」の項には(東京堂の『出版年鑑』を典拠にして)、「内務省図書課・警視庁検閲課、新聞雑誌の整理・統合など出版統制強化を推進(映画・演劇・写真部門、新年号から実施)」と記される。10誌以上が乱立していた写真雑誌は、統廃合され、翌年の41年1月号から、『写真文化』『アサヒカメラ』『報道写真』『写真日本』の4誌となる。「防諜座談会」の一斉掲載は、そんな統制時代が始まっているのを、(出版業界だけでなく)読者一人一人にも実感させるものだった
40年10月から、『アサヒグラフ』の表紙には、小さな標語が載るようになる。10月9日号(37回で紹介した)は、「空襲は必至 用意はよいか」、10月23日号は、「赤心防諜揺がぬ日本」である。本文記事では「欧州スパイ陣を発く」が連載中だ。「宣伝・謀略戦」「紙の弾丸」「活字の毒ガス」の文字が目に入る。『アサヒグラフ』が、国策報道写真を載せる国内向けグラフ誌としての色彩を急速に強めていく時期だ。
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「赤心防諜揺がぬ日本」の標語(『アサヒグラフ40年10月23日号表紙、四六4倍判、グラビア印刷オフセット印刷
 
グラビア印刷を主体にした朝日新聞社刊行の大判の雑誌全体でも、同じように、統制強化が見える。ひとつは『アサヒスポーツ』(23年3月創刊、四六4倍判、横組み、月二回刊)で、『アサヒグラフ』と同じ判型だったのが、41年に「新体制規格版」となってA4判・縦組みに変更された(43年6月に休刊)。もうひとつは、「アサヒグラフ定期増刊」と称して続いてきた『映画と演芸』(24年9月創刊、四六4倍判、月刊)である。すでに38年6月に判型を小さくして『映画朝日』(四六倍判)と改題していたが、40年10月号で休刊となり、同誌の用紙実績は、『航空朝日』(40年11月創刊、B5判、月刊)に引き継がれていく。不要不急の雑誌は廃刊され、より実用的・実際的な国策雑誌に乗り換えられていくのである。