戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

41回 林謙一情報官が「敵ながら天晴れ」と書く『LIFE』とは

前回とりあげた「防諜座談会」(各写真雑誌の1940年10月号)で、W少佐(陸軍省)は、戦争における防諜の重要性を語り、緒方信一(内務省外事課内務事務官)は、取り締まる立場として軍機保護法・軍用資源秘密保護法・要塞地帯法などを挙げ、国防上撮影禁止になる場所への留意を促していた。林謙一(内閣情報部情報官)は、「私の方は撮つてはいけないといふ側では無くして、かういふものを撮りなさいといふ側ですが」と、内務省とは違う内閣情報部の立場を強調する一方で、「最近は逓信省と連絡しまして、手紙に入れるやうな一枚の写真で小さなものは外からは一寸分りませぬが、写真とはつきり分つて居るものは厳重に検閲するやうに話を進めて居ります。内外人の区別無しに取締つてゆき度いと考へます」と、取り締まりに踏み出す発言もしている。
林は、戦後書いた『日曜カメラマン』(池田書店62年)では、自分も戦時中にスパイとみなされ、フィルムを抜き取られたという経験を書いたあと、「百歩譲つて地形の写真を撮つたとしても、地上からの写真が、戦略絨毯爆撃の何の役に立つたであろうか。日本の都市を一つ一つつぶしていくのに、必ず二日か三日前に、[米軍は]正確無比な航空写真を撮つていつた」と、米軍の本土空襲に対しては、日本の写真防諜活動が効果を発揮しなかったことを、他人事のように記している。
 
そんな林謙一の、「かういふものを撮りなさい」という立場から見ると、戦時中のお手本は、もっぱらアメリカのLIFE』誌であったと思われる。
林が書いた「敵誌ライフに大東亜戦争を見る」(『報道写真』43年7~9月号、B5判)という3回連載の記事では、『LIFE』を、「敵米国の国民大衆のバロメーター」だとして解説する。日米開戦直後の41年12月15日号(1年半も前の号であるが)について、「只この十五日号で注目すべきことは、おそらく『ライフ』創刊以来始めて日本を敵意に満ちたジヤップと呼称し始めたことである」と、米国民の気持を変化させるきっかけづくりを『LIFE』が果たした可能性を感じ取っている。そして次の12月22日号については、「正味二週間の時間に編輯プランを樹立し、取材し、編輯し、数百万部を印刷し、配本し、店頭に送り出したとすると、敵ながら天晴れではある」と記す。「兎も角この一冊は『憤怒特輯号』とも称すべき興奮である」。「『ライフ』の編輯者は自らの感情に十セントの定価を付けて大衆に売り、政府の代弁者になつて明らかに、宣伝に突入してゐる」と書く文脈は、けなしているのではなく、編集者の良識と決断をほめているのだ。その本心は、「『LIFE』のように、国策と国民の気持に沿った報道写真を、手際よく速報すべきだ。それなのに……」というはがゆい気持の表現と読める。
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林謙一「敵誌ライフに大東亜戦争を見る(上)」『報道写真』1943年7月号(B5判、活版印刷)。
 
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林謙一「敵誌ライフに大東亜戦争を見る(上)」『報道写真』43年7月号(B5判、活版印刷)。
『LIFE』41年12月22日号の表紙は星条旗を掲げ、国家意識の昂揚をはかっている。本文イラストの日本機は、旧式のままの複葉機が描かれている。
 
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林謙一「敵誌ライフに大東亜戦争を見る(上)」『報道写真』43年7月号(B5判、活版印刷)。
『LIFE』41年12月22日号の本文イラストと、日本で公表されたハワイ攻撃のイラストや写真とを比較検討している。
 
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林謙一「敵誌ライフに大東亜戦争を見る(上)」『報道写真』43年7月号(B5判、活版印刷)。『LIFE』41年12月22日号の「日本機鑑別法」に掲載された日本機が旧式であったことを根拠に、「日本の写真防諜も相当の成績をあげてゐたことがうなづかれる」と書いている。
 
現在から振り返って見ると、当時の『LIFE』という週刊誌の影響力の大きさは、なかなか理解できない。しかし、『LIFE』の速報性と印刷精度の高さ、英語という国際語の普及性を実感していた林謙一には、『LIFE』の力は絶大なものに見えていたのだろう。