戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

48回 情報局に写真宣伝協議会を設置

海外向けと国内向けの国策写真の「指導」と「実践」を担う日本写真公社(旧・写真協会)が発行する月刊誌『日本写真』(1944年5~9月号?)に資料的価値を感じるのは、他の雑誌ではあまり目にすることのない組織・機構の話が、実際的な書きぶりで、記事にされている点だ。同時期に刊行されていた『写真科学』が、写真の科学的な側面からの記事ばかりで充たされ、巻末に日本写真学会や戦時写真技術研究会などの動向を、ほんの数行だけ載せていたのとは、大違いである。
たとえば、44年7月号の「写真宣伝の中枢機関 日本写真公社の発足――新機構と陣容決る――」という記事(前回参照)中の評議員のリストに、日本幻燈株式会社取締役・松本俊一の名が見えるが、同号には、松本による「写真幻燈の時局性」という記事が掲載され、幻燈が宣伝用に脚光を浴びるようになった経緯などが解説されていて、とてもわかりやすい。
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松本俊一「写真幻燈の時局性」『日本写真』1944年7月号(活版印刷
 
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『日本写真』表紙と裏表紙(日本写真公社、活版印刷)。44年6月号から、裏表紙に回覧用の捺印欄が設けられている。上: 7月号(表紙撮影:真継不二夫)、下:8月号(表紙撮影:田村茂)
 
44年8月号には、興味深い記事が多い。春山行夫「対外グラフの重点 『フロント』の主張を中心に」は、「筆者は現在『フロント』の編輯委員会に席を置いてゐないので、その後の企画が、どのやうな委員会によつて審議されてゐるかを詳かにしないが」などと、一般には知られていない『FRONT』の企画の討議のされかたにまで触れる。また、東京写真工業専門学校教授・新井保男「写真行学の現状」は、前年に行なわれた写真教育機関の改称や学科の新設・転換などを、詳しく述べている(学徒出陣に連動して行なわれた変更である)。
「写真宣伝協議会を解説する」は、1ページものの記事だが、重要な内容を含んでいる。筆者は、「情報局週報課 渡辺史郎」。リード文に、「情報局に(写真宣伝協議会)と言ふものがある 大部分の人はそれが何をするものか知らない。併し凡そ写真に関係のある人々、特に報道宣伝分野に携はる人々は、一応知つておく必要がある」と記されている。「情報局では曩に用紙及映画用生フイルムについて夫々委員会及協議会を設けて之が重点的配給制度を確立したが、普通写真資材については未だ一元的な統制が行はれてゐなかつた」ので、「主として報道宣伝に要する写真資材の全面的統制を行ひ、之を重点的に配給することとし」、写真宣伝協議会を設置することになった。44年1月25日に大綱を決定、2月10日の次官会議で承認を得たという。
国立公文書館アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/index.htmlで「写真宣伝協議会」を検索してヒットするのは、「内閣閣甲第二六号」という44年2月10日の次官会議で承認を得たという文書で、この「写真宣伝協議会を解説する」という記事の内容の正確さが裏づけられる。)
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渡辺史郎「写真宣伝協議会を解説する」『日本写真』44年8月号(活版印刷)。
 
つまり、写真宣伝協議会は、写真資材の割当決定機関である。44年3月22日の第1回会議で(大日本写真報国会発会式の1週間前である)、昭和19年度第1四半期の感光資材割当量を決定しているが、その対象は「日本新聞会、日本印刷文化協会、国際文化振興会、写真協会(日本写真公社)、日本報道写真協会(四月以後日本写真公社に移管)、大日本写真報国会等」である。第2回協議会において、「山端写真科学研究所、日本出版会及同盟、朝日、毎日、読売各社現地用資材が加へられた」という。割当の対象になった組織は、そのほとんどすべてが、日本写真公社の評議員か専門委員の所属団体である。大日本写真報国会に統合されたはずの日本報道写真協会の名が、大日本写真報国会とは別に載っていて、「四月以後日本写真公社に移管」と記されているのは、職業写真団体として日本写真公社の仕事に活用されるということなのだろうか。
いずれにしても、日本写真公社が情報局の指導の下にある国策機関であったことは、間違いないことだ。日本写真公社の前身である写真協会が、情報局の前身である内閣情報部によって38年に設立された事情については、白山眞理「反日宣伝に対抗する報道写真――「写真協会」の成立を中心として」(『インテリジェンス』4号、2004年)に詳しい。