戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

49回 3月10日の東京大空襲(1)

 実際的な記事を掲載していた『日本写真』(日本写真公社)は、『写真雑誌の軌跡』(JCIIライブラリー、2001年)によると、1944年9月号で休刊になっている。手元には8月号までしかないので、突然の休刊の理由はわからない。業界内の理論誌として特化しすぎて広がりがない性格が、厳しい時局に合わないと判断されたのか、それとも、組織や機構についての書きかたが、率直すぎたのか。
 そんなわけで、最後まで残った写真雑誌は、『写真科学』である。編集長だった伊藤逸平は、「原稿を依頼に行くと本人は疎開先に行つていたり、締切にとりにいくと、たしかにこの前はあつたはずの執筆者の家が跡形もなくなつてもちろん原稿も灰。印刷所に入ると印刷所が焼け、あるいは製本所で焼ける。大急ぎでまた編集のやりなおしという、いま考えてみると、馬鹿みたいなくり返しを続けながら恥しくて冷汗が出るような、「写真科学」を刊行して行つた」(「ひどい時代」『カメラ』56年4月号)と回顧している。 

『写真科学』表紙(B5判、活版印刷)。左から、1944年11-12月合併号、45年1-2月合併号、5-6月合併号
 たしかに『写真科学』は、44年11-12月合併号の次は、45年1-2月合併号、5-6月合併号と飛び飛びの刊行で終わる(46年1月号から『カメラ』の名で復刊)。45年1-2月合併号巻末の「告知!!」を読めば、東京の空襲の激しさがわかる。
 「敵米の神経戦謀略爆撃に依り止むなく先の十一十二合併号をお送りした直後又もや今月号(一、二合併号)を焼失した。折角刷了になり製本進行中の処を、と部員一同新なる憤激に燃へてゐる。本号は右号を急速に改版印刷したるものであるが、季節的な不合理の点は御諒承せられ度い。三月号は工業写真特輯号にして総べての手配を終了した処にこの謀略爆撃である。同時に四月号用原稿全部と貴重なる文献と企画表をも喪失した」。

製本中の号を焼失したことを知らせる「告知!!」(『写真科学』45年1-2月合併号、活版印刷
 3月号と予定されていた「工業写真特輯号」は、45年5-6月合併号として刊行されたが、同号「社告」には、「今般戦災に依り旧社屋は焼失仕り候 不取敢明記の個所に於て活発に営業継続致し居候間御承知の程願上候」とある。
 北原出版(旧・アルス)のあった神田区神保町1丁目65は、古書店街の南側に当たる。『コンサイス東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』(復刻版、日地出版、1985年)を見ると、まだらに燃え残った地域だが、運悪く社屋を焼失したのである。5-6月合併号の住所は、社名が「アルス」であった時代の神田区神保町3丁目13番地にもどっている。そして、1-2月合併号までの印刷所は、小石川区久堅町108の共同印刷だったのが、5-6月合併号では、神田区錦町3丁目1番地の大同印刷になっている。
 空襲による印刷所被災は、すでに特別のことではなく、ほかの雑誌にも同様の記載を見ることができる。たとえば、4月、5月、6月を休刊した大日本雄弁会講談社の『講談倶楽部』45年7月号(第35巻第4号)の「後記」には、「去る四月十三日夜の空襲に、講談倶楽部の印刷所が焼失した。実に残念である。為に四月号の発行が不能に陥り、急遽四、五月合併号を計画して、他の処で、印刷を急いでゐる最中、再び五月二十五日夜の空襲で、その印刷所も罹災した」とある。「あらゆる苦難を乗越し、各方面の御尽力で、更に、七月号を新しい印刷所で刷ることになつた。それがこの生まれ変つた講談倶楽部である。表紙もなく、頁数も減つた。製本もしてない素ツ裸のまゝのこの姿が、決戦時の雑誌である」。 
 さて、東京が受けた45年3月10日の大空襲被害を、グラフ誌はどのように報道していたか。
 まず『アサヒグラフ3月21日号表紙写真のキャプションは、「三月十日の帝都空襲に於ける民防空陣の消火作業」である。「東京、大阪、名古屋に対する残虐暴戻な敵の無差別空爆!」と始まるリード文で「敵」を非難し、読者に呼びかけているが、思い起こせば40年秋、『アサヒグラフ』の表紙には、「空襲は必至 用意はよいか」という標語が掲げられていた(40回参照)。つまり、4年半前にはすでに、市民が空襲に遭うことを前提として、その心構えを標語で呼びかけていたはずなのに、ひとたび無差別空襲を受けてみると、予想以上の被害に驚き、今度はその残虐性を非難しているのだ。表紙下の特集記事タイトルは、「戦友よ逞しく焦土から起たう」である

アサヒグラフ』45年3月21日号表紙と裏表紙(B4判、グラビア印刷)。この頃になると、表紙を上下二分割して写真をレイアウトする例が増える

 

 本文特集記事は、漫画家・横井福次郎の画文「ルメーの教へたこと」などを含めて4ページ分。「屢々大爆撃を予想し、国民に警告を発しつゝあつた政府当局も、率直に言つて、その救護対策には手緩く、遺憾な点が多かつた。防空活動に対してもその指導が不十分であつた向もある。残念だ」と率直に書いているが、実際の被害の規模には、ほとんど触れていない。『アサヒグラフ』は、本来が総合グラフ誌という立場なので、このような大空襲被害があっても、総花的な構成は崩さず、空襲被害の記事のあとには、海外ニュースや漫画、雑報的記事を細かく載せている。

アサヒグラフ』45年3月21日号の巻頭(グラビア印刷)。すでに表紙裏(表2)の広告もなくなり、直接本文記事が始まっている