50回 3月10日の東京大空襲(2)
1945年3月10日未明の「帝都空襲」被害を報じた『アサヒグラフ』の3月21日号には、漫画家・横井福次郎による「ルメーの教へたこと」が掲載された。書き出しは「ルメーの第一回東京夜間爆撃をうけて、残念ながらわが家は灰燼に帰したが、どつこいむざむざと只の灰にはするものか、火の雨、弾の雨の中から、焼跡から、ちやんと新しい防空戦術を学んでおいた」である。
1ヶ月半前の『アサヒグラフ』2月7日号の表紙には、「米第二十一爆撃隊司令ルメーは、かつて対独爆撃に用ひた酷薄非道な都市無差別大爆撃の凶手を、わが本土に向つて揮い来たつた。去る一月二十七日の帝都暴爆はまさにルメーの驕れる挑戦だ。彼の波状爆撃は今後一層熾烈化するであらう。老幼病者、妊産婦を初めとする人員の疎開、重要生産工場の疎散と地下移転、これらの防空対策を即刻施行して大都会を鉄壁の防空都市にしよう」と記されていた。
同じ2月7日発行の『写真週報』358号の「敵機遂に帝都を無差別爆撃」にも、「殊に今度マリアナ基地の第二十一爆撃隊司令に任命されたカーチス・ルメーは盟邦ドイツの都市無差別爆撃に獣名を馳せた男であり、その嗜虐性が買はれて対日爆撃に起用された男である。今度も帝都盲爆もその惨虐性の片鱗を示したに過ぎず、さらに悪辣な手段によつて本土爆撃を強化して来ることは当然予想される」とある。
「敵機遂に帝都を無差別爆撃」『写真週報』358号(45年2月7日、部分、グラビア印刷)
国内向けプロパガンダの一翼を担っていた両誌は、このように、ルメー将軍を憎悪の対象として、繰り返し記事にする一方で、優勢な物量に驕る敵が残虐非道だから疎開をするのだ、という理屈をつくり上げてきた。前回(49回)触れたように、『アサヒグラフ』45年3月21日号が、東京大空襲の記事の中で、「屢々大爆撃を予想し、国民に警告を発しつゝあつた政府当局も、率直に言つて、その救護対策には手緩く、遺憾な点が多かつた。防空活動に対してもその指導が不十分であつた向もある。残念だ」と批判的に書いたのは、予想以上の被害に、思わず本音が出たものか。
2月7日には、『アサヒグラフ』に足並みをそろえていた『写真週報』だったが、3月21日には刊行されなかった。東京で印刷していた『写真週報』は、2月末から刊行遅延と合併号が目立つようになる。361-362合併号(3月7日)、363号(3月14日)、その次が364-365合併号(3月28日)である。それ以降も、発行は断続的で、366号(4月11日)、367号(4月18日)、368号(4月25日)、369-370合併号(5月9日)、371号(6月1日)、372号(6月11日)、373号(6月21日)、374-375合併号(7月11日)で終わっている。371号(6月1日)は、「今号から旬刊に」という告知で、「本号から輸送その他の情勢に鑑み、一部を大阪で印刷発送して西日本の読者の御便宜をはかることにしました。なほ発行が遅延しましたので、五月は九日号を以て打切ります」と記している。