戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

53回 『LIFE』に掲載された「KAMIKAZE」

大東亜戦争」に負けて、それまでの価値観からガラリと転換する。
敗戦を乗り越えて、戦後まで生き延びた雑誌は、新聞社系に多い。
毎日新聞社の週刊誌『サンデー毎日』は、1940年秋にB5判の「新体制規格版」になり(37回参照)、43年2月から45年末まで『週刊毎日』という誌名になっていたが、終戦直後は、表紙は本文と共紙で、表紙とも16ページの時代である。45年11月4日号に掲載された「米軍から見た神風特攻隊」のリード文には、以下のように記されている。
「これはアメリカの大衆雑誌「ライフ」七月卅日号に「カミカゼ」と題して掲載された記事を訳出したもので傍みだしには「日本の航空機いまや自爆機と化す、特攻精神を有する搭乗員は名誉の戦死を覚悟、戦果を挙げ得ず逆にジョン・ハルゼー麾下により損害を蒙る」とある。もちろん終戦前に発刊されたものであり、恐らくは沖縄決戦の最中に書かれたものと思はれるので、当時の状況を考慮に入れて読む必要があるが、あの「神風特攻隊」を米軍側がいかに見てゐたか、を知る上に深い関心のそそられる読みものたるを失はない。敢て原文のまま紹介する所以である」(「米軍から見た神風特攻隊」『週刊毎日』45年11月4日号)。
かつては、LIFE』に掲載された記事を引用して、いかに敵(米国)が残虐残忍で、悪質なプロパガンダをしているか、各雑誌が訴えてきた(42回参照)ものだが、この『週刊毎日』のリード文は、一転して、『LIFE』の記事内容に相当の客観性を認める書きぶりになっている。
LIFE』45年7月30日号(本文80ページで用紙は薄め)の「KAMIKAZE」から転載された図版は、44年10月、レイテ沖海戦で空母スワニー(記事中では「スワネ」)の艦橋に体当たりする「カミカゼ」を撮影した連続写真である。もとの記事には、沖縄沖の戦闘でカミカゼ攻撃を受けた駆逐艦ラフェイに、22機の特攻機がどのように攻撃したかという図解や、自爆攻撃機・桜花の絵や写真なども掲載されていたが、『週刊毎日』には使われていない。日本人には、実際に特攻機が体当たりする瞬間が一番気になるものであったからだろう。49年に公開された映画「日本敗れたれど」でも、特攻機の突入シーンが一番の話題であったという(「日本敗れたれど」は、『占領期雑誌資料大系 大衆文化編 第5巻 占領から戦後へ』(岩波書店2009年)にDVDで添付されている)。イメージ 1
「米軍から見た神風特攻隊」『週刊毎日』1945年11月4日号(厚み0.12ミリ、活版印刷)。
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KAMIKAZE」『LIFE』45年7月30日号(厚み0.06ミリ、活版印刷)。写真に矢印で示され、垂直に降下してくるのが特攻機で、左から接近するのが、迎撃する米軍の艦載機ヘルキャット
 
『週刊毎日』45年11月4日号の「米軍から見た神風特攻隊」の本文記事は、LIFE』45年7月30日号の「KAMIKAZE」から翻訳転載されたものだが、「特攻機は欧洲における音響爆弾と同じやうに、最早太平洋戦局を覆へすことは出来ない」、「四月になりB29の爆撃が成功するに至り、ニミッツ提督は、太平洋作戦においてはじめて日本機をその補充能力以上に撃破することが出来るやうになった、と報じている」と、米軍に有利な戦況を記している。次に、「日本では一九四四年の夏から秋にかけて、特攻隊を組織した」と、特攻隊の成り立ちについて書き始め、それ以降の特攻隊の出撃の様子を解説している。たとえば、「自爆のためにただ一回の飛行しか出来ないやうな旧式の搭乗機を与へられ大いに落胆する」とか、「「靖国神社で再会しよう」などと熱狂的にいひつつ訣別する」、「決死飛行の前夜衣服全部を与へてしまつたためか褌一つと思はれる者もあつた」、「極く僅かながら中には熱狂的な精神を持つてゐないものがある」など。後半では、戦後「人間爆弾」として語られるようになる自爆攻撃機「桜花」を「バカ」(BAKA BOMB)として紹介する。そして記事の末尾を、「日本人はまだかつて一回も負けたことがないといふ歴史から、また、だしぬけの発端によつて戦争が始められ、また奇妙な狭い頭で生み出した気狂ひじみた特攻精神から勝つと信じている」、「日本人は他の国民の到底出来ないことを成しとげた。それは組織された自殺行為であり、国家的の病的行為である」と締めくくっている。
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KAMIKAZE」『LIFE』45年7月30日号(厚み0.06ミリ、活版印刷)。「BAKA BOMB」としてイラストで紹介されている自爆攻撃機・桜花。
 
「奇妙な狭い頭」という言葉から思い出すのは、『LIFE』37年8月30日号(本文104ページで、用紙も厚めの0.11ミリ)のTHE JAPANESE:THE WORLD'S MOST CONVENTIONAL PEOPLEである。「日本人:最も因習的な国民」と訳され、国辱的な記事に写真が悪用されたと紹介された有名な記事だ。今日から見れば、「オリエンタリズム」の視線として多面的な解釈ができるが、それほど侮辱的な色合いは感じない。好奇心あふれる外国人旅行者の目に異国情緒と映るであろう日本的風習が集められているにすぎない(巻末に近い写真クレジット欄には、NATORI from B. S. や、M. HORINO、THE TOKYO ASAHI、などの名が見える。つまり名取洋之助や堀野正雄、東京朝日新聞社などの写真が使われているのである。B. S. というのは、米国の通信社ブラックスターのこと。名取はブラックスターを通して配信し、堀野は直接配信していたことが、このクレジットからわかる)。 イメージ 4
THE JAPANESE:THE WORLDS MOST CONVENTIONAL PEOPLE『LIFE』37年8月30日号(厚み0.11ミリ、グラビア印刷)。1冊の中で、活版印刷グラビア印刷を使い分けている。
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THE JAPANESE:THE WORLDS MOST CONVENTIONAL PEOPLE『LIFE』37年8月30日号(グラビア印刷)。
 
掲載当時、この「日本人:最も因習的な国民」は、国辱的なグラフ記事として、写真雑誌で何度もとりあげられた。比較的リベラルな人物であったと思われる鈴木八郎(『カメラクラブ』編集長)でさえ、これを「如何に写真が逆用されるか、という実例」として取り上げている。「男女混浴の或温泉場内の写真、草履を抜いである廊下の上に食膳を置いてお辞儀をしてゐる宿屋の情景等の報道写真であるが、吾々がこれを見ても唯微笑を以つて眺め得るであらうが、然しこれはアメリカに送られ、日本はかくも文化の低い国である、と云ふ実例として扱はれ、非常に大部数発行のグラフイツクに掲載されたと云ふのだから、それがどんな効果を挙げるか思ひ半ばに過るであらう」(鈴木八郎「「貧しき家の子」を批判する」『カメラクラブ』38年6月号)。
「日本人:最も因習的な国民」を批判する側の頭には、盧溝橋事件直後に書かれたLIFE』の記事だから、悪意と皮肉のこもった論調で書かれているはずだという思い込みがあるのだろう。実際に「文化の低い国」であるかどうかよりも、どのように評価されているかに過剰にこだわる一方で、日本は一等国だという妄想が「奇妙な狭い頭」に満ちていた時代である。しかし当時の日本は、女性の参政権さえまだ獲得できていない。
「日本人:最も因習的な国民」にまつわる議論のうち、注目に値するのは、『フォトタイムス』39年3月号の座談会「今後の写真はこうでありたい」で開陳された土門拳の意見である。
「廊下のお膳の問題ですが、――略――あゝいふことは我々がやつて居るとまゝ起り勝ちである。起り勝ちでも、それは日本が強くさへなれば差支ない。さう神経質になることはないといふことは非常な達見であると思ひます。アメリカには写真を使つた大衆雑誌が沢山あつて、それには大部分のセクシヨンはギヤングの写真、死体とピストルと裸体さういふものを中心に出して居るのであります。検閲制度が日本なんかと違ふやうですが、それを少しも恐れずに対外にばら撒かれて居る。それを見て私はアメリカを一つも軽蔑する意味はない。それを平気で外国人の前に曝け出して居りながらびくともしないデモクラシーといふものに打たれるのであります」。
報道と出版の自由こそデモクラシーの根幹であると見極めた土門の発言は、70年後に読む我々の心にも響いてくる。土門の強い姿勢は、のちに「対外宣伝雑誌論」(『日本評論』43年9月号)で物議を醸す論点(「印刷資材や人手の足りない時代にこんな大同小異のつまらない雑誌を何んで幾種類も作る必要があるのか」)(43回参照)にも通底している。