戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

54回 「武器よさらば!」――敗戦と『アサヒグラフ』

戦後グラフ誌の前史を振り返る必要を感じて、第35回から、『アサヒグラフ』創刊の1923年ごろにさかのぼり、グラフ誌の歴史をたどろうとした。前回ようやく、第1回に取りあげた『週刊毎日』とほぼ同じ時期の、45年11月に戻ってきた。しばらくは、戦後の『アサヒグラフ』の周辺を見ていこう。
 
さて、敗戦によって、戦前から続くグラフ誌『アサヒグラフ』はどのように変わったか。もちろん、今まで国民に秘密にされてきたことを暴いてみせるのが、メディアの役目である。
45年8月25日号巻頭の「戦争終結の大詔渙発」では、ポツダム宣言受諾の経緯を詳しく書く。そして、次ページの「原子爆弾とは」に、理化学研究所仁科芳雄博士(サイクロトロン原子核研究をしていた)が8月16日付『朝日新聞』(以下、すべて東京版。夕刊はまだ復活していない)に発表した解説「原子爆弾とは」を再録し、被爆した広島・長崎の写真を4枚載せている。4枚の写真は、仁科博士の解説に引き続いて、それぞれ『朝日新聞』の8月19日付(焦土の広島市街)、8月20日付(吹き飛ばされた貨車)、8月25日付(長崎市の惨状が2枚)に掲載されたのと同じ写真を、あらためて鮮明なグラビア印刷で再録したものだ。長崎の2枚は山端庸介が撮影した写真である。
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原子爆弾とは」『アサヒグラフ1945年8月25日号(グラビア印刷)。右下と左下の写真が、山端庸介撮影の長崎。
 
その後も『朝日新聞』は、8月30日付で大田洋子による「海底のやうな光 原子爆弾の空襲に遭つて」という記事に「ばらばらになった河川の舟」という写真(宮武特派員撮影)を添え、9月16日付には、広島のきのこ雲の写真を掲載する。同じく朝日新聞社発行の『週刊少国民9月30日号にも、広島のきのこ雲や天井が吹き飛んだ電車の写真などが掲載されている。朝日新聞社系だけ見ても、幾度も被爆写真が発表され、原爆の威力と被害の大きさが報道されたわけだが、それも終戦から1ヶ月半までのこと。8月末には連合国軍が進駐し、9月にはGHQ連合国軍総司令部)によって「プレスコード」が示され、以後(講和条約発効の52年まで)、被爆写真は封印されてしまうのである。
ここで、「プレスコード」について、補足を記しておく。今でこそ、この「プレスコード」は9月19日に示されたとされるが、『朝日新聞』が、「聯合軍司令部より 新聞紙法を指示 日本の全刊行物に適用」と報じたのは、9月23日付で、大部分の読者は、この日に初めて10項目の内容を知ったことになる。以下に、記事を引用する。
「聯合軍最高司令部は中央連絡事務局を経由して帝国政府に対する覚書を発し「日本に与へる新聞紙法」を指示して来たが、右の覚書は二十一日情報局及内務省より全国地方長官に通達された、覚書の全文左の通り
(米軍総司令部渉外局二十一日発表)日本における新聞の自由を確立するといふ聯合軍総司令官の目的に沿ふために日本に対する新聞規定が発表された、この新聞規定は新聞に対する制限ではなくして、自由な新聞の持つ責任とその意味を日本の新聞に教へ込むためである、而してニュースの真実性および宣伝の払拭といふ点に重点が置かれてをり、本規定はニュース、社説並に全新聞紙に掲載される広告は勿論、この外日本において印刷されるあらゆる刊行物に適用される
一、報道は厳格に真実を守らざるべからず
二、直接たると推論の結果たるとを問はず公安を害すべき事項は何事も掲載すべからず
三、聯合国に対し虚偽若くは破壊的なる批判を為すべからず
四、進駐聯合軍に対し破壊的なる批判を加へ又は同軍に対し不信若くは怨恨を招来するが如き事項を掲載すべからず
五、聯合軍の動静は公表せられざる限り之に関し記述若くは論議を為すべからず
六、記事は事実に即して記述せらるべく編輯上の意見は完全に之を払拭せざるべからず
七、如何なる宣伝上の企図たるとを問はず之に合致せしむべく記事を着色すべからず
八、如何なる宣伝上の企図たるとを問はず之を強調し、若くは伸張する為記事の軽微なる細部を過度に強調すべからず
九、如何なる記事をも剴切なる事実若くは細部の省略に依り之を歪曲すべからず
十、新聞の編輯において如何なる宣伝上の企図たることを問はず之を実現し、または伸張する目的を以て如何なる記事をも之を不当に顕著ならしむべからず
                      最高司令官代理
                         ハロルド フエア陸軍中佐
                               参謀副官補佐官」
つまり、「日本に与へる新聞紙法」の覚書は、9月21日に発表されたというのである。
しかしすでに、9月19日~20日の『朝日新聞』(東京版)は、新聞発行停止の命令を受けていて、この件については、9月21日付紙面に(9月20日の日付で)社告を掲載している。「朝日新聞東京本社はマツクアーサー最高司令官の命令により本月十五、十六、十七日付掲載記事中マツクアーサー司令部指示の新聞記事取締方針第一項「真実に反し又は公安を害すべき事項を掲載せざること」に違反したものありとの理由によつて十八日午後四時より廿日午後四時まで新聞発行の停止を受けた、よつて十九日付および二十日付本誌は休刊の止むなきに至つたが、二十一日付は特に四頁に増頁して三日間における記事、写真を収載しました」というのである。
とすると、この発行停止は、プレスコード公表前に規制が行われた一例と言える。社告中には「新聞記事取締方針」と記されているだけだが、不思議なことに、朝日新聞記事データベースで「プレスコード」と検索すると、この9月21日付紙面の社告が出てくるのが興味深い。『朝日新聞社史 昭和戦後編』(1994年)では、口絵に9月23日付紙面を掲載し、キャプションで、「9月19日に「プレス・コード」(新聞準則)を発表」としているのだから、やや矛盾した扱いのようにも感じるが、データベース作成時に、工夫して入力していることがわかる一例だ。

さて、『アサヒグラフ』の紙面にもどると、「連合軍内地へ進駐」(9月5日号)は、6ページにわたる大特集である。続いて「連合軍九州へ進駐」(9月15日-25日合併号)、民間情報教育部(CIE)提供の「最近米国の科学」(10月5日号)と、アメリカ寄りの話題が増えていく。
「初めて見るマリアナB二九基地の全貌」(10月5日号)は、飛行場や貨物港だけでなく、照明設備が完備した野球場、野外劇場、放送局、病院などの写真を載せるが、米軍のグラフ誌『YANK』(AMERICAN EDITIONの8月24日号)からの転載である。本文記事は、「我が敗北が時間の問題であつた事は疑問の余地がない」、「アメリカの厖大な機械力は僅々半年余で絶海の珊瑚礁上に忽然として近代的大空軍基地を現出せしめてしまつた」と書く。グアム島のアプラ港に「船を入れるため約六百万立方碼の珊瑚が港外へ除去された」というのは、自然保護の観点からは乱暴ではあるけれど、もちろん戦時下の話だ。
「英字の大氾濫」(10月15日号)は、「坊主憎けりや袈裟まで憎い」と英語を廃止してきた流れから一変し、英字が氾濫するようになった町の様子を伝える。
10月25日号表紙の「時速七四五粁の新鋭機」の文字を見て、また米軍機の話だと思ってページをめくると、大日本帝国海軍が最後に開発した局地戦闘機震電」の写真なのでびっくり。連合軍に接収される機体を「惜しや実戦に間に合はず」と2ページにわたって紹介している。実に美しい機体だが、タカアシガニのように腰高だ。三点着陸訓練で育った海軍の戦闘機乗りが、これを乗りこなせたかどうか。
武器よさらば!」(11月5日号)は、「進駐軍の手によつて整理されつゝある」九州の戦車や高射砲、軍用機の姿である。「想へばこの夥しい武器の為に我々は総てを捧げたのであつた、乏しい財布から国債を、貯金を、税金を……」。そして「今や我々は敗残の身を餓死の一歩手前で食止めることに必死になつてゐる」
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「最高時速七四五キロの「震電」」『アサヒグラフ45年10月25日号(グラビア印刷)。
 
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武器よさらば!」『アサヒグラフ45年11月5日号(グラビア印刷)。
 
12月15日号では、数か月前まで延べ300万人が掘っていた長野県松代の地下大本営のことを、「日本一無用の長物」と揶揄してみせ、45年最後の号である12月25日号の表紙には、積み上げられて壊される日本軍用機の写真を載せている。この写真には、「葬送行進曲“軍国日本の翼”」というキャプションがつけられている。敗戦4ヶ月で、航空機や武器の処分がかなり進んでいたことが、記事から見えてくる。
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左:『アサヒグラフ45年12月15日号表紙(グラビア印刷)。キャプションは「聖上 議会に親臨 優渥なる勅語を賜ふ(貴族院にて謹写)」。右:『アサヒグラフ』45年12月25日号表紙(グラビア印刷)。キャプションは「葬送行進曲“軍国日本の翼” 米進駐軍提供写真」。
 
注目したいのは、9月5日号から人物紹介ページができたこと。10月5日号で市川房枝(「婦選の古強者」)、12月25日号では文部省文化課長・今日出海(「作家、初のお役人」)にインタビューして記事を書いているのが、「伊沢記者」だ。45年12月から副編集長になり、のちに『婦人朝日』編集長を経て、『アサヒグラフ』編集長として活躍することになる伊沢紀(劇作家・飯沢匡の本名)である。