戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

31回 『週刊サンニュース』の血筋を引き継ぐ『太陽』

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1940年代アメリカの週刊『LIFE』は、60年代日本の月刊『文芸春秋』に相当する、という感想を、前回述べた。
20年という時代の差は、もちろん、日米の経済力の差である。
40年代後半の『LIFE』(週刊)の本文は、64ページから144ページくらいだから、同時代の『アサヒグラフ』(週刊、本文16ページ)や『毎日グラフ』(月2回刊、本文20ページ)は、比べものにならない。『アサヒグラフ』の半分のサイズ(B5判)の『週刊朝日』でさえ、本文20ページ、28ページ、32ページと、徐々に増えていくところで、粗悪な紙で薄っぺらな雑誌だった。言うまでもなく、終戦後の40年代後半は、燃料(石炭)不足を原因とする用紙生産量低迷のおかげで、用紙割当制度の下にある。47年4月17日に、新聞および出版用紙割当委員会出版部会(委員長は、岩波書店支配人・小林勇)で、割当以外の用紙の使用禁止が決まったことは、以前(21回)に触れた。ページ数も制限して、A5判は最高64ページ、B5判は最高32ページとなった。この「4・17旋風」の結果、新聞には、「“大衆文化に用紙を”出版界に揚る声」(『朝日新聞』47年5月13日付)という記事が載る。「用紙割当が高級文化の面に重く、大衆的文化の面に軽いという声が高まろうとしている」「このなかにあつて大量に割当紙を獲得したのが岩波書店である」と書かれているのだ。小林勇は談話で、「私がお手盛りで割当をきめるなどいう者があるが、委員会でそんなことのできないのは明らかだ」と全面否定している。しかし、安い定価で大部数を刷りたい大衆向けの雑誌が、割当量に不満を持っていたのは確かだろう。
いずれにせよ、アメリカの『LIFE』と同等の形態で、「日本の『LIFE』をつくる」ためには、まず日本の経済が復興し、紙の生産が安定することが必要だった。

では、紙不足が解消した後の、高度経済成長まっただなかで創刊されたグラフィックな月刊誌『太陽』(平凡社、63年7月創刊)においては、何が実現できたのかを見てみよう。
ここで『太陽』をとりあげるのは、もちろん理由がある。47年に「日本の『LIFE』をつくる」という目標で創刊され、1年半足らずで挫折した『週刊サンニュース』で、「美術」のメンバーとして働いた原弘と多川精一の、約15年後の仕事だからだ(原と多川は、戦中の府立工芸学校以来の師弟関係である)。
『太陽』は天地290ミリ、左右220ミリという変型判で、平綴じ。A4判の頭を7ミリ切り、小口を10ミリ伸ばしているのだが、あらためて開くと、大きすぎて手に余る。「創刊のことば」によると、『太陽』編集部は35名。「THE SUN, monthly de luxe」と称したように、サン=太陽という血筋をタイトルに示している。『週刊サンニュース』が粗末な雑誌であったことの反省なのか、こちらはde luxeという豪華志向で、「報道」より「情報」「知識」「読み物」という面が強い。のちの「ムック」へつながる流れのなかに置くべき出版物と言える。
創刊号は本文192ページで、定価290円。高度成長下であっても、全ページカラーは、まだまだ無理な時代。4色オフセット印刷、2色オフセット印刷、単色オフセット印刷、単色グラビア印刷を使っている。大きく扱うモノクロ写真はグラビアで、文字中心の記事はオフセットで印刷するなど、細かく使い分けているのが興味深い。表紙用紙の厚みは0.24ミリ、本文用紙は0.08ミリから0.1ミリというところ。
アートディレクターに原弘、エディトリアルデザイン多川精一らが参加し、その上、創刊当初は左開き横組み、というのは『週刊サンニュース』と同じパターンだ。創刊号の写真家には、木村伊兵衛、薗部澄、長野重一など、『週刊サンニュース』でおなじみの名前が見える。それだけではない。「ESKIMO 太陽は極北に近づく」(撮影:渡部雄吉)という特集記事まである。『週刊サンニュース』創刊号から連載された読み物「極北綺譚」を、いやでも思い出させるタイトルと内容ではないだろうか。

画像は上から、「“大衆文化に用紙を”出版界に揚る声」『朝日新聞縮刷版』1947年5月13日付(新聞は活版印刷だが、縮刷版はオフセット印刷)。『太陽』創刊号(63年7月号)と2号(63年8月号)表紙(いずれもオフセット印刷、撮影:早崎治、デザイン:原弘)。「ESKIMO 太陽は極北に近づく」のトップページ『太陽』創刊号(63年7月号、グラビア印刷、撮影:渡部雄吉)。「АESKIMO 太陽は極北に近づく」の14-15ページ目『太陽』創刊号(63年7月号、オフセット印刷、撮影:渡部雄吉)。連載特集「日本人はどこからきたか」の1回目「ゾウを追ってきた原人たち」の6-7ページ目『太陽』創刊号(63年7月号、オフセット印刷、絵:福沢一郎)。