戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

21回 『週刊サンニュース』創刊の1947年、『毎日グラフ』創刊の1948年

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『週刊サンニュース』創刊の1947年が「紙飢饉」の年であったことは、前に述べた。まず47年4月17日に新聞および出版用紙割当委員会出版部会(委員長は、岩波書店支配人・小林勇)で割当以外の用紙の使用禁止が決まっている。石炭不足による用紙生産低迷を受けての決定であったが、その影響で、夏には各誌が合併号を出して凌ぐことになる。
合併号の一例として、綜合諷刺雑誌と銘打った月刊誌『VAN』(イヴニング・スター社)の4-5月合併号と、7-8月合併号を見ていただこう。「4」とピンクで印刷された隣りに「-5」を墨版で刷り足したり、白抜きで「7」と印刷されている隣りに「8」を墨版で刷り足している。本来の印刷はオフセットだが、刷り足しは活版である(結局この年、『VAN』は8冊しか発行できなかった)。
47年は、用紙事情だけでなく、食糧事情も改善しなかった。「押し寄せるインフレの波」(『朝日新聞』47年11月5日付記事の中のひとこと)のなかで、ヤミ食糧を拒否し栄養失調で死亡した山口良忠判事が新聞で話題になったのも、11月5日のことだった。そのような状況のなかで、『週刊サンニュース』は創刊(47年11月12日)されたのである。

『週刊サンニュース』創刊の47年11月に比べると、『毎日グラフ』創刊の48年7月の諸事情は、いくらか改善されていただろうか。『毎日新聞百年史』(毎日新聞社、1972年)は、『毎日グラフ』初代編集長・柄沢広之の言葉として、「創刊当時はまだ紙の統制が解けていなかったので、まず紙を手に入れることに苦心した。グラビア用紙がなく、ザラ紙を使い、インキも油のはいっていない、いわゆる水インキだった」と記している。
グラビア印刷用水インキは、すでに戦前に熟成された技術である。ライバルの『アサヒグラフ』を印刷していた朝日新聞大阪本社の出版印刷部によると、「印刷物は乾燥後水に不溶解となり、油性インキに比して遜色なく、色調極めて高雅なる印刷物を得て、しかも費用は極めて低廉である」(『朝日新聞グラビア小史――出版印刷部40年の記録――』大阪・朝日新聞社、1962年)という。製造法は特許で、31年に登録されたが、1年後に特許権を放棄したので、各社がその製法と印刷技術を体得していたはずである。同書には、戦中の話として、「水性インキは油性とちがって、印刷中にスピードもでないし、版埋りをおこしたり、またインキ槽のなかでアワを生じ、そのアワのため印刷面が汚れるので、そのアワを除去するのに泣かされたものである」という記述もあり、水性インキはメリットばかりではなかったことがわかる。しかし、刷り上がった印刷物から、油性・水性の別を見分けるのは、60年後のわれわれには無理な話だ。
用紙について、実際に『毎日グラフ』創刊号(48年7月1日号)に当たってみると、表紙も本文も厚さ0.08ミリ。表面にツヤがあり、平滑性もある。薄手の紙でインキもよく乗って墨色が濃く、60年たっているのに劣化していない。2号目、3号目以降の紙質と比べても、差があるとは感じられない。いくらかザラつきは感じるが、グラビア用紙と呼ぶ以外に考えられない良質の紙だ。『毎日新聞百年史』の「ザラ紙を使い」という記述は、何かの間違いではないだろうか。

ここでは、『毎日グラフ』創刊号(48年7月1日号)から、「蟻」という記事の見開きをお見せするが、フラッシュが反射して困るほどにツヤがある。内容については、『週刊サンニュース』8号(48年1月29日)の「はじめてわかった「収獲蟻」の生態」と比較してほしい。『週刊サンニュース』は、クロナガアリの巣の断面図入りで、科学記事という扱い。蟻の撮影に使ったカメラまで写真で説明している。それに対して『毎日グラフ』は、読者がこれほどのクローズ・アップに驚くであろうことなど構わず、作家・乾信一郎に文章を書かせ、食糧難の人間社会に対して、食糧過多の蟻社会というユーモア短編に仕立てている。
どちらを読者が喜んだか、という観点で選べば、やはり広がりのある『毎日グラフ』のほうだと思う。大衆向けの雑誌を標榜するのなら、どんなテーマでも、人間の話にひきつけてしまうのが筋だからだ。

画像は上から、 АVAN』1947年4-5月合併号と7-8月合併号(オフセット印刷、絵:河野鷹思)。◆А慊日新聞縮刷版』より47年11月5日付(新聞は活版印刷だが、縮刷版はオフセット印刷)。:「はじめてわかった「収獲蟻」の生態」『週刊サンニュース』8号(48年1月29日、オフセット印刷、撮影:田村栄)。ぁ峙臓廖慄萋釤哀薀奸48年7月1日創刊号(グラビア印刷、文:乾信一郎)。