戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

22回 『毎日グラフ』創刊号と大宅壮一の写真評論

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

大宅壮一(1900~70)が1949年の1年間、24回にわたって『毎日グラフ』(当時は月2回刊)に連載した「写真時評」を軸に、グラフ系の雑誌の動きを追ってきた。大宅の連載は短い文章であったために、かえって論旨が明快で、なおかつ当時の状況を知るのに便利であった。
その「写真時評」を連載していた最中に、大宅が写真雑誌に書いた評論を1篇紹介しよう。それは、『カメラ』(49年5月号、編集人:桑原甲子雄)に寄稿した「感動的なクローズ・アツプを!――新聞、グラフカメラマンに望む――」という見開き記事である。
「写真時評」を通して見えていた大宅の基本姿勢は、「作為や歪曲の跡が見えない」(「写真時評」『毎日グラフ』49年1月15日号)写真をよしとするものだ。この『カメラ』の論評でも、その姿勢は変わらないが、長い文章なので、より論理的になっている。さわりを引用する。

「これら[新聞やグラフ誌]の報道写真に欠けている一番重要なものは、もつとも劇的な瞬間における人物のクロズ・アツプであるということに気がついた」
「一層劇的で、しかも凄い迫力をもつているのは、昨年の「毎日グラフ」に出たもので、毎日新聞の石井カメラマンが撮つた復員軍人の表情である。目のあたり祖国の姿をみた帰還兵の感極まつた顔――泣いているのか笑つているのか、何ともいえぬ複雑な表情が、ありのままに、何等の誇張も割引もなしに、見事にキヤツチされている」
「一九四八年度の日本社会史を一枚の写真で示すものを求められたら、私は何等の躊躇なしに、これを推したい」
「私が報道写真に、表情のアツプを要求するのは、主題の精神的な面をとらえるには、それが一番有効適確な方法だと考えるからである。報道写真というと、事件の内容を興味本位に描いたり、一般の人々には眼新しい未知の世界を紹介したり、せいぜいのところ、断片的な清新美や刺戟的なスリルをふくんだものが最上とされているようだが、それだけではまだ不充分である。その主題の背後に潜んでいる社会的な、歴史的な意義を明らかにし、精神的な深い感動をともなうようなものでなければ嘘だ」(大宅壮一「感動的なクローズ・アツプを!――新聞、グラフカメラマンに望む――」『カメラ』49年5月号)

大宅が絶賛しているのが、『毎日グラフ』48年7月1日創刊号(表紙とも24ページ)に掲載された「帰郷」という4ページもののグラフ記事のトップに置かれた「ソ連領から続々と」(石井清特派員撮影)である。
バタバタしているうちに刊行時期が迫ってくる創刊号に、これだけ力のある写真を掲載できる『毎日グラフ』の実力はたいしたものだ。また、グラフ記事としてのレイアウトにもメリハリが感じられる。本文と表紙は共紙で、表紙としては薄すぎるが、同じグラビア印刷なので、本文もページによっては表紙と同じ2色印刷が可能である。だから、「ソ連領から続々と」の文字は、表紙ロゴと同じ赤色が使われている。この赤色をうまく使えば紙面が派手になるし、小説の挿絵などには、とても効果的だ。
『毎日グラフ』初代編集長・柄沢広之は、創刊当時を振り返って、「これが飛ぶように売れて、編集用として机上においたものまでなくなる始末だった。紙がないので売れるだけ刷るというわけにはいかなかった」(『毎日新聞百年史』毎日新聞社、72年)と語っている。
ともかく『毎日グラフ』は、創刊から数年間は、最強のグラフ誌だった、と個人的には思う。次回から少しずつその魅力を見ていこう。

画像は上から 大宅壮一「感動的なクローズ・アツプを!――新聞、グラフカメラマンに望む――」『カメラ』(1949年5月号、活版印刷)。◆4ページものの「帰郷」の最初の見開き。上下2段に分け、上段には「シベリアから」(芳岡、椎橋特派員撮影)、下段には「樺太から」(石井特派員撮影)を流していく(『毎日グラフ』48年7月1日創刊号、2色グラビア印刷)。:「帰郷」の2番目の見開き(『毎日グラフ』48年7月1日創刊号、この面は1色グラビア印刷)。ぁЪ婆攅セ辧峙?臓廖慄萋釤哀薀奸拜牢号(48年7月1日、2色グラビア印刷、絵:Suga[菅沼金六])。