戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

20回 『週刊サンニュース』から「岩波写真文庫」へ

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前述の「先輩に聞く」(『アサヒカメラ』1950年6月号)で、名取洋之助は、写真は「芸術写真」以外の「もつといろいろな方面に、たとえば、科学とか、報道とかに使われるものだ」と規定し、「報道写真の場合は、新聞で言えば『解説記事』」であると主張していた。
「先輩に聞く」が掲載されたのは、ちょうど名取が「岩波写真文庫」の創刊に追われていた時期に当たる。
名取が編集長となって「岩波写真文庫」(B6判本文64頁、全286冊)をスタートさせるのは、1950年6月10日。発行元の岩波書店は、創業者の岩波茂雄死去から満3年たった49年4月25日に株式会社となり、個人商店時代に支配人だった小林勇が、専務取締役に就任していた。
岩波写真文庫」のほとんどに、「編集 岩波書店編集部」「写真 岩波映画製作所」と記されているが、撮影から編集・製作の大部分を、岩波映画製作所が担当している。雪の結晶研究で名高い中谷宇吉郎の映画づくりのために設立された中谷研究室を前身とする岩波映画製作所は、50年5月1日に創設された。社長を置かずに、代表取締役専務を、岩波書店専務の小林勇が兼任した。
『週刊サンニュース』の最後の号で写真を掲載するまでは編集者だった長野重一が、名取に誘われて中谷研究室に入社。写真文庫のカメラマンとして働くようになる。そのときはまだ、編集者として羽仁進がいただけだったらしい。
「眼からきたものは印象的で強い。(略)レンズはわれわれの肉眼がおよばない独特な世界をつかんで威力を発揮する」(『図書』50年4月号)と宣伝文で謳った「岩波写真文庫」は、監修を著名な学者に依頼するなど、教養主義啓蒙主義で裏打ちされていた。つまり、『週刊サンニュース』の旧スタッフの体質にぴったりの内容だったと言える。『週刊サンニュース』で漫画家として売り出した岡部冬彦に、写真文庫の表紙デザインが依頼された。薗部澄が入社し、小島敏子も参加。多川精一がレイアウトに加わり、村田道紀はグラフやイラストを描いた。初期の写真文庫には、木村伊兵衛や藤本四八、小柳次一などの名前も見えている。
岩波写真文庫」で新たに撮影できないものは、借用写真で構成した。『週刊サンニュース』の写真もずいぶん活用されている。たとえば、名取が37年にアメリカを横断して撮影した写真を使って、『アメリカ人』(50年6月)と『アメリカ』(50年7月)という2冊の写真文庫が編集されたとき、『アメリカ』には、借用写真が10枚ほど使われた。その1枚は、『週刊サンニュース』2巻7号(49年1月5日)に掲載されたヘッセル・ティルトマンの「にせい」という記事から再利用されたものだ。戦後の50年に出版するのに、13年前の37年に撮影された写真で構成して、はたして大丈夫なものか、やや不安があったろう。しかし、戦後の写真を10枚混ぜ、最新のデータを図表にして掲げるだけで、全体としては戦後のアメリカを語る写真文庫として十分通用させることができたのだ。
名取洋之助が主張していた「報道写真の場合は、新聞で言えば『解説記事』」という言葉を、写真文庫の例に当てはめて考えると、論理に沿って並べる写真文庫では、ニュース性や構図の良し悪しよりも、説明的な分かりやすい写真が重視される、という意味になるだろう。
岩波写真文庫」は読者に受け入れられて、58年12月までの8年半に286冊が刊行されたが、ページの左右を2分割、3分割するレイアウト規則は、『週刊サンニュース』と同様である。判型が小さい分、変化がつけにくいのだから、これで十分である。

図版は上から、 А惱鬼サンニュース』2巻6号(1948年12月25日、オフセット印刷)と『映画速報』(オフセット印刷)、「岩波写真文庫」(活版印刷)の大きさを比較してみた。◆Д悒奪札襦Ε謄ルトマン「にせい」『週刊サンニュース』2巻7号(49年1月5日、グラビア印刷)。:「にせい」の写真が、「イースト・ウエスト提供」として再利用された『アメリカ』(「岩波写真文庫」6、50年7月、活版印刷)。