戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

19回 『週刊サンニュース』の用紙割当と、長野重一の活躍

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1949年3月5日刊の『週刊サンニュース』2巻12号には、「編集」のメンバーであったはずの長野重一撮影の記事「都市計画のモデル・シティ 大分市」が掲載されている。のちに「岩波写真文庫」の撮影スタッフとして活躍する長野の、初めての「報道写真」である。この号で、『週刊サンニュース』は休刊になる。47年11月12日の創刊号から1年4ヶ月、通巻41号であった。
その後のサン出版社について、『わがままいっぱい名取洋之助』は書いている。

『週刊サンニュース』を廃刊したあとの『サン出版社』は、債務債権の整理のかたわら、今年分の割当てで残っているグラビア用紙があるので、河野鷹思に世話してもらった、新東宝の映画館用のパンフレット、松岡謙一郎の口ききで廻してもらった厚生省の機関誌などを制作編集して、一部残留社員の生活だけは維持できそうだった(三神真彦『わがままいっぱい名取洋之助筑摩書房、1988年)。

「新東宝の映画館用のパンフレット」とは、『映画速報』のことであろう。B6判で本文16ページ、定価10円。B4判の『週刊サンニュース』に比べると、とても小さなパンフレットだが、編集発行人は長野重一。1号(49年7月10日)には、「サンニュース」の文字が題字の上に記されている。発行所のサン出版社の住所は、『週刊サンニュース』2巻12号では「東京都千代田区有楽町毎日新館六階」となっていたが、『映画速報』1号では「東京都千代田区大手町二ノ八朝日生命別館内」と変わっている。のちに題字の上の「サンニュース」の文字はなくなるが、手元の5号(49年10月3日)を見ると、発行所も新東宝出版社と名称が変更されている。内容は(当然だが)、新東宝系の映画、俳優、女優の話題である。レイアウトは、大衆向けの軟らかいもので、写真が斜めに置かれることが多い。水平垂直線を基準に写真がレイアウトされていた『週刊サンニュース』とは大違いだ。

「日本の『LIFE』をつくる」という積極的な目的から始まった『週刊サンニュース』と、残った割当用紙の活用という消極的な目的で始まった『映画速報』。雑誌刊行の動機も、読者対象も全く違う。だが、用紙割当が一種の利権として作用していた時代には、さまざまな思惑が出版の動機になったことを強く印象づける話だ。
そういえば、『週刊サンニュース』といとこ同士のような関係にあった『サン写真新聞』は、毎日新聞の系列として創刊された「別働隊」だった。既存新聞が敗戦時の実績を基準に用紙割当されたのに対して、新興紙は申請の75パーセントが許されたので、用紙の新規割当を獲得するために、別会社を設立して新たに創刊したのだという(『毎日新聞百年史』毎日新聞社、1972年)。
とすると、毎日新聞社が用紙割当獲得を目的にして、「紙飢饉」の47年に系列会社に創刊させたのが『週刊サンニュース』だ、という可能性もゼロとは言えない(だから、流用可能な新聞用紙だったりして)。最悪の用紙事情を脱した48年になると、『週刊サンニュース』の発行元をサン出版社にして系列から切り離す。そして毎日新聞本社から『毎日グラフ』を創刊して、もと系列だった『週刊サンニュース』と競合し圧迫する……。『週刊サンニュース』こそ、戦後の「紙飢饉」に翻弄された被害者だった、という構図は……まあ、妄想だろうとは思うのだが。

画像は上から、 А崚垰垠弉茲離皀妊・シティ 大分市」『週刊サンニュース』2巻12号(1949年3月5日、グラビア印刷、撮影:長野重一)。◆Ш絃紂惘撚菎報』1号(49年7月10日、2色オフセット印刷)、右上5号(49年10月3日、2色オフセット印刷)、左下8号(49年11月14日、2色活版印刷)、右下11号(49年12月31日、4色オフセット印刷)の表紙で、新東宝では高峰秀子がダントツの人気だったことが分かる。:左上『映画速報』1号本文(2色オフセット印刷)、右上5号本文(グラビア印刷)、左下8号本文(グラビア印刷)、右下11号本文(グラビア印刷)のレイアウト。ぁА惘撚菎報』1号の奥付ページ(2色オフセット印刷)。