戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

18回 『週刊サンニュース』の限界

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名取洋之助の唱える「報道写真家」像――「一人でシナリオ・ライター、監督、カメラマン、その上編集者をも兼ねる」――は、あまりに理想論でありすぎた。仕上がりの記事の姿を想定して撮ることは必要だが、安っぽいお涙頂戴記事や、独りよがりの啓蒙主義になる危険をはらんでいる。だから、別の冷静な目で見て組み立て直す編集者の存在は、いつも必要だ。しかも、編集者には、1番目の読者としての役割がある。読者の気持になって、本当に読みたい記事になっているか、を点検するのである。
思うに、「報道写真家」とデザイナーを尊重した『週刊サンニュース』は、有能な編集者を集めることができなかったのではないか。前述した通り、『週刊サンニュース』の「写真」と「美術」のスタッフは、名取を始め、ほとんどが、戦中に軍や政府組織の関与する対外宣伝(プロパガンダ)を担った経験を持つ。かつて彼らがつくっていたのは、クライアントの意向に合わせた出版物であり、読者の反響や売り上げを考えなくてもよかった。
『週刊サンニュース』が「皆さんの綜合雑誌」「皆さんの家庭綜合雑誌」を標榜するのならば、時代の風向きや読者の気分・欲望を察知するアンテナ、すなわち優秀な編集者が必要だった。しかし、名取たちは、彼ら戦中派の手馴れたパターン(プロパガンダ=啓蒙)に頼って、独りよがりになって刊行を続けていたのではないだろうか。「仲間に評判がよい号ほど、かえって返品が多かったなあ」とデザイナーの多川精一が思い出を語っていたのが、記憶に残っている。

画像は、すべて『週刊サンニュース』表紙(いずれもオフセット印刷)。 2巻4号(1948年12月7日、撮影:吉田潤)と2巻5号(48年12月15日、撮影:木村伊兵衛)。◆2巻7号(1949年1月5日、撮影:稲村隆正。:2巻8号(49年1月15日、撮影:稲村隆正)と2巻9号(49年2月5日、撮影:稲村隆正)。ぁ2巻10号(49年2月15日、撮影:稲村隆正)と2巻11号(49年2月25日、撮影:木村茂)。