前回とりあげた「防諜座談会」(各写真雑誌の1940年10月号)で、W少佐(陸軍省)は、戦争における防諜の重要性を語り、緒方信一(内務省外事課内務事務官)は、取り締まる立場として軍機保護法・軍用資源秘密保護法・要塞地帯法などを挙げ、国防上撮影禁止に…
出版物のサイズが「新体制規格版」に切り替わりつつある1940(昭和15)年10月前後、写真雑誌が一斉に「防諜座談会」という記事を載せる。 記事の題名は、雑誌によって違い、「当局に訊く 防諜座談会」(『カメラ』40年10月号、四六倍判)、「写真と防諜座談…
1939(昭和14)年から40年にかけて、『アサヒグラフ』に、木村伊兵衛が撮影した写真が集中的に掲載される。1枚写真もあるが、いわゆる報道写真の手法で、組写真をまとめた記事が、いくつかある。その中から、女性風俗を写したものを紹介しよう。 「風光り女…
四六4倍判の『週刊朝日』と『サンデー毎日』が、半分以下の大きさの「新体制規格版」(B5判)になったのは、1940(昭和15)年10月だった。『アサヒグラフ』は少し遅れて、41年1月から、ひと回りだけ小ぶりな「新体制規格版」(B4判)になる。 「新体制規格版…
『旬刊朝日』(『週刊朝日』)と『サンデー毎日』の創刊で競いあった大新聞社の考え方を、創刊2年後の1924年に、大阪毎日新聞社社長・本山彦一が語っている。 新聞事業が発展し、「各部各課に分かれて分課になればなるほど人の頭数がよけいに要る。そうする…
週刊になった『アサヒグラフ』が、グラビア印刷を使って創刊されたのは、1923年11月14日だった。編集は東京で、印刷は大阪のグラビア輪転印刷機で、という『アサヒグラフ』の変則的製作方法は、戦後の61年に朝日新聞大阪本社の出版印刷部が廃止されるまで、3…
25回以降、『毎日グラフ』の表紙デザインから『LIFE』を連想し、『ホープ』や『太陽』に寄り道をしてしまった。特に『ホープ』は、グラフ誌に分類するのは無理な雑誌だ。しかし、『ホープ』に限らず、月刊誌の口絵グラビアには、50~60年後の現在から見たと…
『太陽』の1回目のリニューアルが行なわれたのは7号(1964年1月号)だった。前回述べたように、表紙や目次のデザインが変わり、内容的には、より身近なテーマ(「大東京は変貌する」など)が扱われるようになった。2回目のリニューアルは49号(67年7月号)で…
『太陽』6号(1963年12月号)には、次号からのリニューアルが告知されている。「太陽は強化される●新年特大号予告●」は、「表紙と目次は、そのスタイルをかえ、これまでより読者に親しみやすいものになります」と記す。すでに6号から表紙が光沢のある用紙に…
『太陽』(平凡社、1963年7月創刊、当初は定価290円)は、「「きりのない百科事典」であると同時に「目で見る詞華集」でもあります」(「創刊のことば」)と自分自身を規定している。毎号特集を組む、ぜいたくな教養志向の雑誌としてのスタートである。。創…
1940年代アメリカの週刊『LIFE』は、60年代日本の月刊『文芸春秋』に相当する、という感想を、前回述べた。20年という時代の差は、もちろん、日米の経済力の差である。40年代後半の『LIFE』(週刊)の本文は、64ページから144ページくらいだから、同時代の『ア…
『ホープ』(実業之日本社、1946年1月創刊)の『LIFE』風外観は、1年で終った。それからほぼ1年後に、「日本の『LIFE』をつくる」と意気込む『週刊サンニュース』(サン・ニュース・フォトス、8号からサン出版社、47年11月創刊)が登場したが、1年半しか続かな…
実業之日本社の社史は、「昭和二十六年三月、一時は盛んな売行を見せた『ホープ』が、その後誌勢徐々に後退したところから、六月一日より誌名を『オール生活』と改題し、内容も従来の娯楽雑誌から生活指導雑誌に切りかえて再出発した」(『実業之日本社七十…
『ホープ』の扉に、岩田専太郎が描く女性のイラストが載るようになるのは、1948年の10月からだ(49年になると、山名文夫のイラストも使われる)。そのころ、表紙が変わる。鮮明な色のバックに、女性のアップが浮かび、店頭で目立つスタイルになるのである。 …
「新しい大衆雑誌」を自称する『ホープ』(1946年1月創刊)の編集方針は、「平凡の中のトツプに坐るやうに努力しよう」だった。「平凡」の基準は、終戦後最大の難問――食糧問題と住宅問題――が安定してくるにつれて、徐々に変わるのは当然のことだ。『LIFE』風…
『ホープ』(実業之日本社)が創刊された1946年1月は、終戦後初めて迎える新年であり、区切りよくここからスタートしようという雑誌が集中して、創刊ブームとなった。『世界』(岩波書店)、『展望』(筑摩書房)などの硬派総合月刊誌も、このとき創刊されて…
『毎日グラフ』(1948年7月1日創刊)の表紙のデザインは、アメリカの『LIFE』(36年11月23日創刊)の物真似だ、と思っている人がいるかもしれない。たしかに、右開きと左開きの違いはあるが、表紙の左上に雑誌名を赤地に白抜きで入れているところは、よく似…
『毎日グラフ』の表紙ロゴは、創刊号(1948年7月1日号)ではまだ固定していなかったことを、前回述べた。 一般的に雑誌は、満を持して創刊に至るものと思われているが、実際には、準備不十分で創刊日が迫る。また準備段階では気がつかなかった用紙、印刷、デ…
さて、全国に取材網と販売網を持つ毎日新聞社から1948年7月に創刊された『毎日グラフ』は、無名の『週刊サンニュース』に比べると、段違いに有名なグラフ誌である。 しかし古本としての人気は、大量に出回っている『アサヒグラフ』に及ばない。関東大震災後…
大宅壮一(1900~70)が1949年の1年間、24回にわたって『毎日グラフ』(当時は月2回刊)に連載した「写真時評」を軸に、グラフ系の雑誌の動きを追ってきた。大宅の連載は短い文章であったために、かえって論旨が明快で、なおかつ当時の状況を知るのに便利で…
『週刊サンニュース』創刊の1947年が「紙飢饉」の年であったことは、前に述べた。まず47年4月17日に新聞および出版用紙割当委員会出版部会(委員長は、岩波書店支配人・小林勇)で割当以外の用紙の使用禁止が決まっている。石炭不足による用紙生産低迷を受け…
前述の「先輩に聞く」(『アサヒカメラ』1950年6月号)で、名取洋之助は、写真は「芸術写真」以外の「もつといろいろな方面に、たとえば、科学とか、報道とかに使われるものだ」と規定し、「報道写真の場合は、新聞で言えば『解説記事』」であると主張してい…
1949年3月5日刊の『週刊サンニュース』2巻12号には、「編集」のメンバーであったはずの長野重一撮影の記事「都市計画のモデル・シティ 大分市」が掲載されている。のちに「岩波写真文庫」の撮影スタッフとして活躍する長野の、初めての「報道写真」である。こ…
名取洋之助の唱える「報道写真家」像――「一人でシナリオ・ライター、監督、カメラマン、その上編集者をも兼ねる」――は、あまりに理想論でありすぎた。仕上がりの記事の姿を想定して撮ることは必要だが、安っぽいお涙頂戴記事や、独りよがりの啓蒙主義になる危…
木村伊兵衛は、『週刊サンニュース』では、ニュース性のある記事から、いつ掲載してもよいような記事まで、いろいろと担当していた。前回同様、木村が撮影した3点の記事を紹介するが、どのようなジャンルでも撮ってしまう木村の、職人としての腕の確かさが伝…
前回紹介した〈『週刊サンニュース』の時代――報道写真と「名取学校」〉の展覧会図録(JCIIフォトサロン、2006年)を見ると、撮影や執筆を担当したスタッフの名前や略号が書き込まれた創刊号(1947年11月12日)が残されているようである。創刊からしばらくは…
2006年の終わりに、東京・一番町の「JCIIフォトサロン」で、〈『週刊サンニュース』の時代――報道写真と「名取学校」〉という写真展が開かれ、木村伊兵衛、藤本四八、小柳次一、三木淳、稲村隆正、薗部澄、小島敏子、長野重一の諸氏が『週刊サンニュース』の…
『週刊サンニュース』の末期、2巻9号(1949年2月5日)から、最終号の2巻12号(49年3月5日)までは、ニュース系の記事は、実は、ちょっと持ち直している。休刊が決まって、ストックしていた記事を消化しようということだったのかもしれないのだが、2巻9号(本…
左開き横組みでスタートした『週刊サンニュース』が右開き縦組みになったのは、8号(1948年1月29日)からで、版元も毎日新聞社が出資する株式会社サン・ニュース・フォトスから、有限会社サン出版社に変更になった。 三神真彦『わがままいっぱい名取洋之助』…
『週刊サンニュース』は創刊号から、「ふえる人口 1分間に2.6人」という、グラフを使った記事を載せている。表やグラフを使って、難しい内容を分かりやすく解説しようという意図が見える。その考えかたを発展させたイラスト記事が、右開き縦組みになってから…