戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

11回 『週刊サンニュース』の啓蒙主義(1)

『週刊サンニュース』の18号(1948年6月25日)に「読者より読者へ・読者より編集者へ・編集者より読者へ」というコラムがある。いわゆる読者欄だ。5つの注文を書いた投書が載っているが、前半の3項目は以下のようである。 一、表紙があまり内容と合致しない…

10回 『週刊サンニュース』のレイアウト(3)

初期(創刊号から7号)の『週刊サンニュース』の左開き横組みは、レイアウトする立場からは、たいそう合理的だ。雑誌全体、一つの記事、一つの見開き、本文の組み方、写真のレイアウト、キャプションの組み方、というすべての観点から見て、左上から右下方向…

9回 『週刊サンニュース』のレイアウト(2)

『週刊サンニュース』(サン・ニュース・フォトス、8号よりサン出版社)の創刊号(1947年11月12日)から7号(47年12月25日)までは左開き横組みというのが、個性的だったと評価されている。だが、新聞紙のような紙質で横組みだから、針金綴じをはずしてしま…

8回 『週刊サンニュース』のレイアウト(1)

『週刊サンニュース』は、名取洋之助が「日本の『LIFE』をつくる」という年来の夢を実現しようとして刊行したものだったといわれている。もちろんそれは、報道写真という仕事の受け皿となる雑誌、という意味だが、『LIFE』のページ数(約60~140頁)には遠く…

7回 『週刊サンニュース』と名取洋之助、小林勇、中垣虎児郎(2)

『週刊サンニュース』創刊号(1947年11月12日)に掲載された冬青庵主人(小林勇)による「奇人――執筆者紹介――」を読むと、小林勇(1903~81)と中垣虎児郎(1894~1971)との、戦前から続く深い関係が浮かび上がってくる。中垣は、エスペランチストで左翼だ…

6回 『週刊サンニュース』と名取洋之助、小林勇、中垣虎児郎(1)

名取洋之助が『週刊サンニュース』(サン・ニュース・フォトス、のちサン出版社)の実質的な編集長だったのは間違いない。しかし、当時の写真雑誌や名取についての評伝などを読まなければ、名取が編集長であったことは、なかなか見えてこない。現物に当たっ…

5回 『週刊サンニュース』の用紙の問題、そして木村伊兵衛

『週刊サンニュース』(サン・ニュース・フォトス、8号よりサン出版社、1947年11月12日創刊)は、かつては、古書店のグラフ誌の山の中に数百円の値札をつけて隠れていたものだが、びっくりするような高値で目録に掲載されることもある。最近では、いくらか値…

4回 『毎日グラフ』と大宅壮一「写真時評」(4)

大宅壮一が『毎日グラフ』の「閑人帖」と題する最終ページに「写真時評」を連載したのは、1949(昭和24)年の1年間である。このころは月2回刊だから、都合24回。2回目の1月15日号では、前年の12月15日号の巻頭に掲載された「シャケは涙か溜め息か」と題する…

3回 『毎日グラフ』と大宅壮一「写真時評」(3)

『毎日グラフ』掲載の記事――大宅壮一と高田保による「銅像対談」――を、前回紹介した。このふたりの組み合わせから連想するものと言えば、名取洋之助主宰の「日本工房」である。1933(昭和8)年7月に設立された日本工房は、日本初のグラフィック製作集団だ。…

2回 『毎日グラフ』と大宅壮一「写真時評」(2)

大宅壮一の「写真時評」が『毎日グラフ』に連載されるのは1949(昭和24)年のことだが、その前に一度、大宅は『毎日グラフ』に登場している。 48年7月1日に創刊したばかりの『毎日グラフ』の第5号である9月1日号に、大宅壮一・高田保による「銅像対談 陰の声…

1回 『毎日グラフ』と大宅壮一「写真時評」(1)

戦後数年間で見ると、1948(昭和23)年7月1日創刊の『毎日グラフ』は、最強のグラフ雑誌であった。当初は月2回刊行だったが、50年4月から旬刊、53年4月から週刊になる。創刊翌年の49年の1年間、最終ページに大宅壮一(1900~70)の「写真時評」を連載している…