戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

6回 『週刊サンニュース』と名取洋之助、小林勇、中垣虎児郎(1)

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名取洋之助が『週刊サンニュース』(サン・ニュース・フォトス、のちサン出版社)の実質的な編集長だったのは間違いない。しかし、当時の写真雑誌や名取についての評伝などを読まなければ、名取が編集長であったことは、なかなか見えてこない。現物に当たってみても、名取の名をみつけるのはむずかしい。巻頭の目次の下にスタッフの名前を表示するようになるのは、17号(1948年6月15日)からのこと。しばらくしてから名取の名前も、松岡謙一郎(松岡洋右の息子。のちのテレビ朝日副社長)や山端庸介(写真関係の会社を経営した山端祥玉の息子。原爆被爆直後の長崎を撮影したことで著名)ら、当初の経営陣とともに「企画」の一員として並んで載るようになるが、とても小さな活字で、この表示自体が末期にはなくなってしまうのである。掲載した画像は、2巻9号(49年2月5日)のもの。次号からは目次が巻末に移って体裁が変わり、スタッフの名前表示はなくなる。

『週刊サンニュース』創刊号(1947年11月12日)の表紙の下方には、連載読み物の「極北綺譚」(中垣虎児郎、7号まで連載)の内容紹介が堂々とレイアウトされている。単行本であれば、帯に相当する位置である。表紙に大きく掲げるくらいだから、読者にアピールする力があるもので、雑誌の売り上げにも貢献が期待できる魅力的な記事だったはずだ。
「極北綺譚」とは何か。物語の主人公ヤン・ウェルツルはチェコ生まれの錠前工。シベリアを横断してベーリング海峡に出、北緯75度のニュー・シベリア島にたどり着き、そこで生活を確立して北極地方第一の成功者になったという体験談を、もともとはエスペラントの原書から、エスペランチストの中垣虎児郎(1894~1971)が翻案したものである。
『週刊サンニュース』創刊号には、中垣の人となりを紹介する「奇人――執筆者紹介――」が載っている。「とも角このやうな、ずばぬけて呑気な、健康な物語りが今のやうにいらいらした生活を送つてゐる日本人に必要なものと考へるのは、ひがめであらうか」と結んでいる文章の筆者は、なんと冬青庵主人――小林勇(1903~81)である。編集者、随筆家であり、「冬青」の号で文人画に熱中した小林は、当時、岩波書店の支配人であった。岩波書店が1949年に株式会社になった後は専務となり、新たに設立した岩波映画製作所の専務を兼任。50年に刊行スタートした「岩波写真文庫」の編集長に、名取洋之助を連れてきた張本人として知られる。