戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

7回 『週刊サンニュース』と名取洋之助、小林勇、中垣虎児郎(2)

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『週刊サンニュース』創刊号(1947年11月12日)に掲載された冬青庵主人(小林勇)による「奇人――執筆者紹介――」を読むと、小林勇(1903~81)と中垣虎児郎(1894~1971)との、戦前から続く深い関係が浮かび上がってくる。
中垣は、エスペランチストで左翼だった。小林が中垣と知り合った昭和6、7年ごろ、「ぼくの事務所には、三木清とか羽仁五郎とか柳瀬正夢とかがいつもきてゐた」という。「ぼくの事務所」というのは、小林が一時岩波書店から離れて経営していた鉄塔書院。中垣の没後に小林が記した「人間を書きたい〈ふたりのエスペランチスト〉――私の青春をかけぬけた伊東三郎と中垣虎児郎――」(『文芸春秋』1972年11月号)によると、中垣は、小林が伊東に相談して鉄塔書院から刊行した「プロレタリアエスペラント講座」の有力な執筆者のひとりだった。
「極北綺譚」について、「この物語りは且つて一度、同じ中垣の手によつて紹介されたことがある」と小林が書いているのは、鉄塔書院の随筆雑誌『鉄塔』に連載し、単行本にまとめた『極北黄金郷の三十年』(1933年、印刷所は理想社)のことである。小林も、面白い題材であるとほれ込んだからこその出版であったはずだが、硬い語り口は改善の余地ありと思っていたのだろう。「稿を改めて本誌に掲載されるのは、この物語の主人公の後日語つたことを、このたびは織込んで作りなほすといふことになつたからである」という通り、旧稿の硬さが取れ、臨場感あふれる語り口になって、とても読みやすくなっている。
『週刊サンニュース』での連載終了後の48年9月に単行本化された『極北綺譚』(寺島書店)には、中垣による挿絵が配される。49年4月に第2刷を発行するが、版元が冬芽書房に変更され、書名も『極北生活三十年』と変更されている。ところが、書名が変わっているのに、各ページの「柱」に示される書名と章名に変化はなく、同じ紙型を用いて印刷されたことが明らかである(画像の上は『極北綺譚』、下が『極北生活三十年』)。印刷者も戸根木豊(戸根木共栄堂印刷)で変わらない。
このあたりの事情は、冬芽書房社長だった江崎誠致からの聞き書き(柴田巌「中垣虎児郎の思い出――故江崎誠致氏に聞く――」『千葉工業大学研究報告 人文編 第39号』2002年)に詳しい。『極北生活三十年』は冬芽書房の門出を祝う出版として、寺島書店から譲り受けたもので、寺島書店社長の寺島岩次郎は元鉄塔書院の社員である。また、中垣は江崎とともに、勤めていた小山書店(岩波書店出身の小山久二郎が興した出版社)をやめて冬芽書房の設立に参加するが、もともと中垣を小山に紹介したのは小林であったことを、小山は『ひとつの時代――小山書店私史――』(六興出版、1982年)に書いている。江崎が共産党の地下活動に専念するようになって、中垣は冬芽書房社長になり、その後ハト書房社長を経て、61年まで平凡社臨時嘱託となる。平凡社での仕事は、「世界の子ども」全15巻(55年2月~57年10月)の作文収集のための国際通信専任スタッフとして、海外のエスペランチストに作品収集の協力依頼をするというものだった(柴田巌「中垣虎児郎伝(3)――日中エスペランチストの師――」『千葉工業大学研究報告 人文編 第41号』2004年)。
寺島書店社長の寺島岩次郎は、晩年、戸根木印刷で営業を担当していたことを、岩波書店OBの坂口顯氏からご教示いただいた。戸根木印刷(現・TONEGI)は、書籍の帯、売り上げカード、外題貼りなど、端物専門の印刷所という印象があるが、かつてはページものも刷っていたということを以前(35年ほど前になるが)聞いたことがある。『極北綺譚』は、そんなページものの1例ということになるわけだ。
小林は、中垣のことをたいそう気に入っていたようだ。『信濃毎日新聞』連載のエッセイをまとめた『一本の道』(岩波書店、1970年)では、1942年に岩波書店から刊行スタートした叢書「少国民のために」のうちの2冊の実際の執筆を中垣が担当したと書かれている。科学者の話を聞いて子どもに理解できるようにまとめるのは、中垣の得意とする仕事だったようだ。
『一本の道』には、中垣に続いて、名取洋之助との親しい関係も記されている。「[44年の]夏のはじめ、中国へ行って仕事をしている写真家の名取洋之助に会い親しくなった」と、戦中の名取との関係を振り返っているのである。「名取は上海に本拠を置き、漢口の方まで行って働いていた。陸軍の仕事をしているが、日本軍のやり方に批判的であった。名取はしきりに私に中国に来いと誘った」。小林は9月はじめに上海に着き、4ヶ月の旅をする。「名取洋之助は私に宿を提供したのみならず、こづかいも呉れた」と書かれている。
小林勇は、「極北綺譚」連載を『週刊サンニュース』に推薦することで、名取と中垣というふたりの友人を応援しようとしたのだろう。『一本の道』には、「サン・フォトという写真週刊誌をやって失敗した名取洋之助」という記述がある。小林の記憶違いが指摘されないまま、単行本にまとめられたことからも、『週刊サンニュース』が世間から忘れられた存在の雑誌であったこと、少なくとも岩波書店の校正担当者も知らない雑誌であったことがわかる。