戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

1回 『毎日グラフ』と大宅壮一「写真時評」(1)

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戦後数年間で見ると、1948(昭和23)年7月1日創刊の『毎日グラフ』は、最強のグラフ雑誌であった。当初は月2回刊行だったが、50年4月から旬刊、53年4月から週刊になる。
創刊翌年の49年の1年間、最終ページに大宅壮一(1900~70)の「写真時評」を連載している。写真についての論評が掲載されるメディアが、写真・カメラ雑誌に限定されていた時代に、『毎日グラフ』は、写真やレイアウト、デザイン、印刷について本気で取り組んでいたという気迫が感じられる。
大宅壮一についての評伝としては、大隈秀夫『裸の大宅壮一』(三省堂、1996年)が著名である。「年譜」の1950年の項には、「本格的にジャーナリズムに復帰し、「わが無法者時代」などを本名で執筆し始める」とある。本文の章タイトルでも、「第8章 本名での再出発」とあり、それまではペンネームでの執筆だったと記されている。この本では、戦中にジャワ(インドネシア)に「文化部隊」として派遣されたところから、1950年までの情報が圧倒的に不足しているのである。たしかに、『毎日グラフ』の小さな連載は、「本格的」な仕事ではないかもしれないのだが、ほかにもいろいろな古雑誌をめくると、本名でちょくちょく出ているような気がする。
手元にある資料では、戦後、最も早く大宅が登場するのは、『週刊毎日』(1943年2月から45年12月まで、『サンデー毎日』は雑誌名を変更していた)の45年12月2日号で、顔写真入り。林芙美子も出席する「近ごろの娘気質」という座談会で、大宅は「僕等も数年前南方に上陸して、矢張り進駐軍として、随分いろいろ交驩して来た方だからその経験から比べると、いまの米兵なんか非常におとなしい、非常に紳士的だと思ひます」と語っている。大宅が戦後になってからジャワについて述べるとき、自分がそこでどんな仕事をしていたかを記すことはほとんどない。大部分は女性がらみのエロ話である。

画像は上から、大宅壮一の「写真時評」1回目が掲載された『毎日グラフ』1949年1月1日号表紙と、2回目が掲載された1月15日号表紙(2色グラビア印刷)。大宅壮一の「写真時評」1回目。タイトルは「量的復興に驚く 全日本観光写真展評」『毎日グラフ』1949年1月1日号(グラビア印刷)。『週刊毎日』45年12月2日号表紙(活版印刷、絵:小穴隆一)。大宅壮一が出席する座談会「近ごろの娘気質」は4ページものの記事(『週刊毎日』45年12月2日号、活版印刷)。