戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

3回 『毎日グラフ』と大宅壮一「写真時評」(3)

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『毎日グラフ』掲載の記事――大宅壮一高田保による「銅像対談」――を、前回紹介した。
このふたりの組み合わせから連想するものと言えば、名取洋之助主宰の「日本工房」である。1933(昭和8)年7月に設立された日本工房は、日本初のグラフィック製作集団だ。戦後、『カメラ』に連載された「報道写真談義」で、名取は以下のように記している。

日本工房の最初の同人は、前記の四氏と私。それに高田保大宅壮一、太田英茂の三氏などが院外団的な立場で参加しました(名取洋之助「報道写真談義4」『カメラ』52年6月号)。

「前記の四氏」とは、「写真家の木村伊兵衛美術評論家の伊奈信男、デザイナーの原弘、プランナーであり俳優でもあった山内光の諸氏」。そして、日本工房が最初に開催したイベントが、33年12月の「ライカによる文芸家肖像写真展」であった。これは、木村伊兵衛が撮影した写真で構成されていた。

高田保氏や大宅壮一氏たちは、銀座通りに出かけては知名の文士や評論家たちをつかまえ、事務所の木村さんのライカの前に連れて来てくださいました(名取洋之助「報道写真談義4」『カメラ』52年6月号)。

じつは、名取が日本工房を設立して「ライカによる文芸家肖像写真展」を開催した33年は、大宅が『人物評論』誌を主宰していた時期にほぼ重なる。大宅は名取より10歳年長だが、社会に向けてアピールする仕事を開始したのは、ほぼ同時期であったのだ。

『毎日グラフ』48年9月1日号に、大宅と高田の「銅像対談」が掲載されたとき、名取洋之助が編集長をつとめる『週刊サンニュース』は、まだ刊行中であったが、売れ行きはふるわなかったようだ。大宅は、『毎日グラフ』49年2月15日号の「写真時評」で、「終戦後素晴らしい意気込みでスタートしたグラフ雑誌は、大新聞社をバツクにもつものを除いて、最近はいずれも経営があまり楽ではないようだ」「「サン・ニュース」の一月中旬号は、警視総監が殴られて夜間立入禁止になったノガミ[上野]の夜景をとつている。これも辛うじて及第している程度で、まだまだ突込み方が足りない」「殊に「サン・ニユース」の如きは、国際的に磨きをかけたカメラ・プロデユーサー名取洋之助氏を初め、記録写真界のヴエテラン木村伊兵衛氏、レー・アウトの名人原弘氏等を擁しながら、このスタツフの全力を傾倒したような収穫に接することができないのは、はなはだ残念である」と記す。この記事の直後の3月に『週刊サンニュース』は休刊している。

名取洋之助が編集長をつとめた『週刊サンニュース』(サン・ニュース・フォトス、8号よりサン出版社)は、公の図書館には見当たらない幻の雑誌である。表紙・本文ともオフセット印刷でスタートし、途中から本文をグラビア印刷に切り替えるなど、興味深い点も多いが、劣化が激しく、現物を手にする機会が少ない貴重なものになっている。

画像は上から、『毎日グラフ』1949年2月15日号表紙(2色グラビア印刷)。『毎日グラフ』49年2月15日号掲載の大宅壮一「写真時評」(グラビア印刷)。『週刊サンニュース』などのグラフ雑誌にふれている。『週刊サンニュース』2巻8号(49年1月15日号)の巻頭、「また増えた立札」という3ページもののグラフ記事(撮影:木村茂グラビア印刷)。木村伊兵衛撮影の女性の横顔がレイアウトされている『週刊サンニュース』創刊号(47年11月12日)と11号(48年4月1日号、ともに表紙は2色オフセット印刷、ともに撮影:木村伊兵衛)。『週刊サンニュース』13号表紙(48年4月25日号、撮影:木村伊兵衛)と15号表紙(48年5月23日号、ともに表紙は4色オフセット印刷)。