戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

57回 民主主義とアメリカ文化の受容(1)――『旬刊ニュース』の場合

戦中に国策報道写真体制に順応してしまった写真報道界は、主体性を確立しなければならないと考えたに違いない。まず終戦直後の1945年後半に現れたのは、ここ数回(53回~56回参照)にわたって見てきたように、戦争の真実を明らかにし、軍国主義を糾弾する写真報道だった。
さて、その次に、どのように展開したのかというと、ふたつの路線があった。
ひとつは、民主主義とアメリカ文化の紹介という路線だ。
終戦の翌年、46年1月から区切りよくスタートした雑誌は多い。以前に大衆月刊誌『ホープ』(実業之日本社、46年1月創刊)を取りあげたことがある(25回~29回参照)。グラフページに力を入れた『ホープ』は、当初は民主的傾向が強く、アメリカ雑誌からの転載記事も多かったが、数年のうちにグラフページを半分つぶして漫画を掲載するなど、娯楽雑誌・風俗雑誌路線へと、急速に舵を切ってしまった。
同時期に創刊されたグラフ系雑誌でも、『ホープ』と同様のことが起こっている。
まず民主主義とアメリカ文化を紹介する雑誌の例として、『旬刊ニュース』(東西出版社、46年1月創刊、月3回刊、A4判、本文32ページ、オフセット印刷)と、『世界画報』(世界画報社、46年1月創刊、月刊、B5判、本文28ページ、グラビア印刷)を見てみよう。

『旬刊ニュース』創刊号(46年1月20日)の表紙の題字部分には、まだ「旬刊」の文字はなく、「ニュース」と書かれているだけ。しかし、表紙右下に小さく「(毎月三回発行)」とあり、奥付にも「旬刊」と書かれている。イメージ 1

左:『旬刊ニュース』創刊号(1946年1月20日オフセット印刷)表紙。「表紙写真は旧「明治丸」の甲板上で令名式挙行中のマ元帥夫人。船はアメリカ第七騎兵連隊赤十字酒保船として再出発した」(マ司令部提供)と書かれている。右:『旬刊ニュース』3号(46年3月10日、オフセット印刷)表紙。表紙写真は、「民主婦人クラブ設立に関して語るマ司令部・ダイク准将と加藤静枝女史」。
 
創刊号表紙左下には「I・N・S・特約世界ニユース」という文字がある。 I.N.Sはアメリカの通信社だ。巻末には、こう記されている。
「全世界に組織網を張って、刻々のニユースを提供するものにA・P(アソシエーテツド プレス)U・P(ユナイテツド プレス)ロイターその他があり日本の各新聞社もそれらによつて世界情報を発表してゐるわけでありますが、その最有力なものの一つがI・N・S(国際通信)であります。本社はニューヨーク市にあり、総支配人はシーモア・バークスン氏、総編輯長はバリー・フアリス氏、極東支局は東京で、支局長はハワード・ハンドルマン氏、東京支局長はフランク・ロバートン氏で、この二人は有名なる戦時通信員であります。
本誌はこの国際通信社とハンドルマン氏を通じて特別契約を結び、全世界の通信網から刻々と電送、又は航空便に依る直接通信を受け、本誌独特の生きた世界ニユースを読者に提供するのであります。従つてI・N・S・特電と書きましたものは本誌以外には読者の目に觸れないわけであります」(「I.N.Sとは?」『旬刊ニュース』創刊号、46年1月20日)。
実際に創刊号の記事を見ると、巻頭のグラフ記事「アメリカ人の夢」は「マ司令部提供」であるし、「合成樹脂の話」は『LIFE』の記事の翻訳である。もちろん、「マ司令部」とはマッカーサー司令部、すなわち連合国最高司令官総司令部GHQ)のことである。「I・N・S特電」の文字が躍る記事は、女優のピンナップや、ほとんど写真を使わない記事(「世界ニュース」や「ヨーロッパ首都の希望と現実」)などに多い。3号(46年3月10日)にも、『LIFE』の記事の翻訳があり、「写真はライフ誌より」としている記事も多い。グラフ記事「カリフォルニヤの生活」の写真は、複写によってすっかり諧調がなくなってしまっているが、もともとは『LIFE』45年10月22日号に掲載された、13ページにわたる大きな記事「THE CALIFORNIA WAY OF LIFE」の抄録である。7号(46年4月30日)になると、I.N.S以外の通信社の素材(サン=アクメ提供など)も増える。つまり、初期の記事では、GHQや各通信社提供の写真を使い、『LIFE』をお手本にしてアメリカ文化を紹介しているが、そのため、バタ臭い印象が強い。
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左:「ホリウッド通信」『旬刊ニュース』3号(46年3月10日、オフセット印刷)。「I・N・S・特約本誌特電」とある。写真は女優の卵、ジーン・ピーター。この号から、用紙が白くなった。右:「アメリカ人の夢」『旬刊ニュース』創刊号(1946年1月20日オフセット印刷)。目次によると「マ司令部提供」だという。
 
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左:「カリフォルニヤの生活」『旬刊ニュース』3号(46年3月10日、オフセット印刷)。右ページが「年収三千弗―ある消防夫の生活―」で、左ページが「年収一萬弗―或セールスマンの家―」。当時のオフセット印刷はインキ濃度が上がらないことが一目でわかる。右:「カリフォルニヤの生活」のもとになった記事「THE CALIFORNIA WAY OF LIFE」『LIFE』45年10月22日号(活版印刷)。
 
この『旬刊ニュース』は、「旬刊」と称しながら、平均して2か月に3回くらいしか刊行できなかった雑誌である。定価は、創刊号(本文32ページ)が1円50銭、3号(本文32ページ)が2円50銭、7号(「陽春増大号」、本文40ページ)が4円と、すさまじいインフレだ。その後も、7円、10円、12円、20円、25円、30円、35円と上がり、創刊から3年弱の48年末には40円になる。3号巻末の定価引上げを告知する「御挨拶」は、「本号から全頁純白の良質紙を使用することにしました。これだけでも私たちは多大の犠牲を払つてゐるのです」と記している。確かに、真っ白な本文用紙(厚み0.07ミリ)は他誌に見られない特徴だが、ここでは、オフセット印刷で刷られていることに注目したい。同時期のグラフ系雑誌では、本文をオフセットで印刷した例は、他には『週刊サンニュース』(3回~21回参照)くらいだ。オフセット印刷はインキが盛れないと言われていた時代で、文字も今ひとつ真っ黒にはならない。その分コントラストを高く見せるためには、白い用紙に印刷するのが効果的だ。
また製版工程から考えると、オフセット印刷の有利さは、『朝日新聞縮刷版』のように、もとの新聞を製版カメラで撮影するような単純な仕事において、一番生きてくるものである。しかし、『旬刊ニュース』のように、本文を活版で組み、その清刷を貼り込んで台紙を作製して撮影し……というスタイルだと、製版工程が複雑になるから、活版印刷グラビア印刷に対して、優位性はあまりない。3号の「社内ニュース」に、編集部の仕事の様子が見える。
 
「★今日はどんなお仕事つて母が尋ねますので、わたし、正直に、「一日中、鋏と糊と物差しを持つて暮しちやつたわ。校正刷をチョキチョキ切つては、寸法を測つて、割付用紙に糊で貼りつけるの。つまんないわ」とこぼしましたら、どうでせう――。「お嫁に行つて、お障子の継ぎ張りする時、どんなに助かるか知れなくつてよ。今から精出して、覚えてお置きなさい」ですって?(編輯部青木)」(「社内ニュース」『旬刊ニュース』3号、46年3月10日)。
 
このような製作工程は、『週刊サンニュース』や、のちの「岩波写真文庫」(50年~58年)とほぼ同じである。「岩波写真文庫」は活版印刷だったが、文字専門の印刷所・精興社で組んだ清刷から凸版をつくり、写真版と組み合わせて、写真専門の印刷所・半七写真印刷工業で刷られていた。戦前から写植(写真植字)は実用化されてはいたが、戦後すぐの段階では、本文まで写植で文字組みしてオフセットで印刷した雑誌は、一部の科学雑誌(たとえば『動く実験室』少年文化社)に限られるようだ。理科系の著者は、完全原稿で入稿する完璧主義者が多いから写植使用も可能だが、大幅な訂正によって文字組みが動くときには、『旬刊ニュース』のように活字での組版のほうが有利である。
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左:『旬刊ニュース』7号(46年4月30日、オフセット印刷)表紙。右:『旬刊ニュース』26号(47年5月20日オフセット印刷)表紙。モデルは、ラナ・ターナ嬢(M.G.M)。
 
『旬刊ニュース』は、創刊1年後には、日本人作家による読み物(時評、コント、探偵小説等)中心の内容になり、アメリカ文化と世界情勢の比率が下がる。最後の頃(通巻55号、49年5月10日で終刊か?)には、煽情的な白人女性の写真を表紙に載せた実話雑誌・風俗雑誌という位置づけになり、用紙も粗悪で、本文の前半はオフセット印刷、後半は活版印刷になっていた(4回参照)。

56回 『YANK』――グラビア印刷とオフセット印刷

LIFE』1945年9月10日号(活版印刷)の大特集「U.S. OCCUPIES JAPAN」のトップページの写真は、厚木飛行場に掲げられたアメリカ国旗がはためくのを見上げる第11空挺師団(the 11th airborne division)の兵士たちである。同じ場所のカットが『YANK』45年10月7日号(CONTINENTAL EDITION、2巻11号、グラビア印刷)に載っているが、国旗の細部や人物に違いがあり、キャプションも「GIs of the Fifth Airborne」となっているので、別の時の撮影なのだろう。
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左:『LIFE』1945年9月10日号(活版印刷)の大特集「U.S. OCCUPIES JAPAN」のトップページ。
右:『YANK』45年10月7日号(CONTINENTAL EDITION、2巻11号、グラビア印刷)トップページ。
 
YANK』は、表紙に「THE ARMY WEEKLY」と掲げているように、米軍の週刊グラフ誌であり、アメリカ雑誌らしく、ピンナップガールのページもある。サイズは『LIFE』と同じ(『アサヒグラフ』のB4判より天地が数ミリ短く左右が数ミリ長い357×262ミリくらい)で、表紙とも24ページだから、『アサヒグラフ』(当時16ページ)に似た手触りと重さの雑誌である。CONTINENTAL EDITION以外に、BRITISH EDITION(こちらのほうが巻数が多い)があり、さらに、日本占領下のTOKYO EDITIONもある。Yank:The Story of World War Ⅱ as Written by the Soldiers によると、1942年6月17日創刊、17ヶ国・地域で21エディションが45年12月まで発行されたという。
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左:『YANK』45年10月5日号(BRITISH EDITION、4巻16号、グラビア印刷)表紙。
右:『YANK』45年10月19日号(TOKYO EDITION、1巻4号、オフセット印刷)表紙。
 
このCONTINENTAL EDITIONの『YANK』45年10月7日号の特集は、日本の降伏と占領であり、爆撃された3都市(長崎、東京、広島)の写真が掲載されているのだが、この号の内容の大部分をそのまま使って、TOKYO EDITIONの『YANK』45年10月19日号(1巻4号、オフセット印刷)がつくられている。同じタイトルの記事では、本文組版をそのまま流用しているが、並べてみると、CONTINENTAL EDITIONでは断ち落としになっているレイアウトを、TOKYO EDITIONでは白フチつきにするなど、微妙に違っている。CONTINENTAL EDITIONもBRITISH EDITIONもグラビア印刷(本文厚み0.11~0.12ミリ)であるのに対して、TOKYO EDITIONはオフセット印刷(裏表紙に凸版印刷の社名が見える、本文厚み0.10ミリ)である。グラビアの印刷物から複写して製版したわけでもない(写真の中の見出しの位置も、トリミングも違う)ので、断ち落としをしない理由は不明であるが、A列、B列に印刷用紙を統一していた日本国内の事情などが影響しているのだろうか(サイパンで刊行されたWESTERN PACIFIC EDITIONや、沖縄で刊行されたSOUTH JAPAN EDITIONもオフセット印刷で、断ち落としをしていない。また、パナマで刊行のPAN-AMERICAN EDITIONは活版印刷であったりと、刊行する地域の事情によって、印刷方式はまちまちである オフセット印刷なので、目を近づけると印刷の網点が見えてしまうが、諧調は比較的豊かである。
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左:『YANK』45年10月7日号(CONTINENTAL EDITION、2巻11号、グラビア印刷)本文。右:『YANK』45年10月19日号(TOKYO EDITION、1巻4号、オフセット印刷)本文。
 
CONTINENTAL EDITIONの『YANK』45年10月7日号の表紙は、戦艦ミズーリでの降伏文書調印式(45年9月2日)の様子である。砲塔の上に、報道関係ではない見物らしい兵士たちも、鈴なりになっているのがわかる。国民性の違いだろうか、厳粛な儀式というより、お祭り騒ぎである(甲板には軍楽隊も控えている)。上のほうを写しこんでいない『アサヒグラフ』45年9月5日号の本文写真(人の配置もほぼ同じ)と比べると、ずいぶん雰囲気が違う。いずれにせよ、9月初旬のまだ蒸し暑い季節に、日本の全権団が着込んでいる服装の暑苦しさと、米軍の制服のスマートさとの落差は印象的だ。
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左:『YANK』45年10月7日号(CONTINENTAL EDITION、2巻11号、グラビア印刷)表紙。右:『アサヒグラフ』45年9月5日号(グラビア印刷)本文。

55回 『アサヒグラフ』の「空から見た東京の焼跡」

1945年3月の大空襲後、東京の都心から下町にかけては、見渡す限りの焼け野原になった。「焼け野原」というのは、「焼けた野原」という意味にも使うが、ここでは言うまでもなく、「焼けて野原のように何もなくなった場所。やけのがはら」(『広辞苑 第5版』)ということである。東京の焼け野原を空から撮った写真が公表されたのは、戦後すぐのことだ。
それらの写真の中では、日本橋区浜町、久松町を中心とするカットが、よく知られている。左から右へ隅田川が流れ、川向こうの深川区から城東区は道筋が見えるだけの状態。こちら側の日本橋区も、新大橋のたもとに浜町公園が四角く見え、手前に明治座や久松警察署、久松国民学校など、半焼けになった鉄筋コンクリートの建物が点々と残っているだけという写真である。
この写真の、のちの掲載例として、講和条約発効後に刊行された『広島――戦争と都市――』(「岩波写真文庫」№72、52年8月)の、自然災害と戦争被害を示すページを挙げよう。右下の1枚が、東京の戦災の激しさと、範囲の広さを実感させる写真として、現在まで、繰り返し使われてきた写真である
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『広島――戦争と都市――』(「岩波写真文庫」№72、1952年8月、B6判、活版印刷)より。
 
この同じ写真を、最初に「空から見た東京の焼跡」という記事の中の1枚として掲載したのが、『アサヒグラフ』45年11月15日号(本文とも16ページの時代)である。記事本文は、「東京を空から見たらどんな状態だらう。これは国民一般が考へてゐたことに違ひない。ここに掲げた三枚の写真は米国陸軍通信隊の撮影になるものである」と書かれている。警視庁、国会議事堂、三宅坂を一望した写真が一番大きく扱われ、日本橋区浜町の写真は、左下に小さくレイアウトされている。
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「空から見た東京の焼跡」『アサヒグラフ45年11月15日号(B4判、グラビア印刷)。右:警視庁、国会議事堂、三宅坂。左上:新橋駅、汐留貨物駅、浜離宮。左下:日本橋区浜町附近、対岸が深川区
 
じつは、『LIFE』45年9月10日号(本文144ページもあって、ずっしりと重い)に、同時に撮影された別カットと思われる写真が掲載されている。大特集「U.S. OCCUPIES JA-PAN」という記事の中の1枚である。『アサヒグラフ』に掲載されたカットより少し左から、竪川を西から真っ直ぐに撮影し、隅田川に架かる両国橋と新大橋を左右に配している。お台場と東京駅のカットと一緒の見開きの中に、堂々としたレイアウトである。ところが、アサヒグラフ』の写真と細部を比べてみると、建物の影の方向が少し違い、こちらのほうが、撮影時間が夕方に近いのに気がつく。同時に撮影された別カットと思ったのは、勘違いであった。
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BATTERED TOKYO」『LIFE』45年9月10日号(大特集「U.S. OCCUPIES JAPAN」の一部、活版印刷)。左上:お台場、左下:東京駅、右:隅田川と竪川周辺。
 
次の見開きには皇居前、大阪城などの空撮もある。撮影者は東京と同様に George Silk の名が記されているそしてそのあとに、45年7月に呉軍港で空爆を受ける重巡洋艦「利根」、空母「天城」、戦艦「日向」が載っている。
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FLEETS END」『LIFE』45年9月10日号(大特集「U.S. OCCUPIES JAPAN」の一部、活版印刷)。45年7月の呉軍港空爆写真。左上:重巡洋艦「利根」、左下:空母「天城」、右:戦艦「日向」。キャプションでは、航空戦艦に改装された「日向」のことを、「a unique but relatively useless hybrid」と解説している。
 
毎日新聞社の毎日フォトバンクhttps://photobank.mainichi.co.jp/php/KK_search.phpで「東京 空襲」と入力・検索すると、193件ヒットする。『LIFE』に掲載された竪川を正面から撮った写真も、『アサヒグラフ』に掲載された浜町の写真も、ちゃんと(それぞれ2枚ずつ)出てくる。新聞各社に配信されていたのであろう。
ちなみに、Googleの画像検索で、Tokyo, Honshu, Japan source:life と入力すると、『LIFE』45年9月10日号に掲載された竪川を正面から撮った写真が出てくる。ところが、Ruins of Hiroshima after the atomic bomb blast source:life と入力すると、同じ写真が広島の写真としても登録されていることがわかる。東京の隅田川と、広島の太田川の区別がつかない人が見れば、東京下町の焼け野原の状態と規模の大きさは、原爆で焼かれたヒロシマにそっくりなのだ。

54回 「武器よさらば!」――敗戦と『アサヒグラフ』

戦後グラフ誌の前史を振り返る必要を感じて、第35回から、『アサヒグラフ』創刊の1923年ごろにさかのぼり、グラフ誌の歴史をたどろうとした。前回ようやく、第1回に取りあげた『週刊毎日』とほぼ同じ時期の、45年11月に戻ってきた。しばらくは、戦後の『アサヒグラフ』の周辺を見ていこう。
 
さて、敗戦によって、戦前から続くグラフ誌『アサヒグラフ』はどのように変わったか。もちろん、今まで国民に秘密にされてきたことを暴いてみせるのが、メディアの役目である。
45年8月25日号巻頭の「戦争終結の大詔渙発」では、ポツダム宣言受諾の経緯を詳しく書く。そして、次ページの「原子爆弾とは」に、理化学研究所仁科芳雄博士(サイクロトロン原子核研究をしていた)が8月16日付『朝日新聞』(以下、すべて東京版。夕刊はまだ復活していない)に発表した解説「原子爆弾とは」を再録し、被爆した広島・長崎の写真を4枚載せている。4枚の写真は、仁科博士の解説に引き続いて、それぞれ『朝日新聞』の8月19日付(焦土の広島市街)、8月20日付(吹き飛ばされた貨車)、8月25日付(長崎市の惨状が2枚)に掲載されたのと同じ写真を、あらためて鮮明なグラビア印刷で再録したものだ。長崎の2枚は山端庸介が撮影した写真である。
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原子爆弾とは」『アサヒグラフ1945年8月25日号(グラビア印刷)。右下と左下の写真が、山端庸介撮影の長崎。
 
その後も『朝日新聞』は、8月30日付で大田洋子による「海底のやうな光 原子爆弾の空襲に遭つて」という記事に「ばらばらになった河川の舟」という写真(宮武特派員撮影)を添え、9月16日付には、広島のきのこ雲の写真を掲載する。同じく朝日新聞社発行の『週刊少国民9月30日号にも、広島のきのこ雲や天井が吹き飛んだ電車の写真などが掲載されている。朝日新聞社系だけ見ても、幾度も被爆写真が発表され、原爆の威力と被害の大きさが報道されたわけだが、それも終戦から1ヶ月半までのこと。8月末には連合国軍が進駐し、9月にはGHQ連合国軍総司令部)によって「プレスコード」が示され、以後(講和条約発効の52年まで)、被爆写真は封印されてしまうのである。
ここで、「プレスコード」について、補足を記しておく。今でこそ、この「プレスコード」は9月19日に示されたとされるが、『朝日新聞』が、「聯合軍司令部より 新聞紙法を指示 日本の全刊行物に適用」と報じたのは、9月23日付で、大部分の読者は、この日に初めて10項目の内容を知ったことになる。以下に、記事を引用する。
「聯合軍最高司令部は中央連絡事務局を経由して帝国政府に対する覚書を発し「日本に与へる新聞紙法」を指示して来たが、右の覚書は二十一日情報局及内務省より全国地方長官に通達された、覚書の全文左の通り
(米軍総司令部渉外局二十一日発表)日本における新聞の自由を確立するといふ聯合軍総司令官の目的に沿ふために日本に対する新聞規定が発表された、この新聞規定は新聞に対する制限ではなくして、自由な新聞の持つ責任とその意味を日本の新聞に教へ込むためである、而してニュースの真実性および宣伝の払拭といふ点に重点が置かれてをり、本規定はニュース、社説並に全新聞紙に掲載される広告は勿論、この外日本において印刷されるあらゆる刊行物に適用される
一、報道は厳格に真実を守らざるべからず
二、直接たると推論の結果たるとを問はず公安を害すべき事項は何事も掲載すべからず
三、聯合国に対し虚偽若くは破壊的なる批判を為すべからず
四、進駐聯合軍に対し破壊的なる批判を加へ又は同軍に対し不信若くは怨恨を招来するが如き事項を掲載すべからず
五、聯合軍の動静は公表せられざる限り之に関し記述若くは論議を為すべからず
六、記事は事実に即して記述せらるべく編輯上の意見は完全に之を払拭せざるべからず
七、如何なる宣伝上の企図たるとを問はず之に合致せしむべく記事を着色すべからず
八、如何なる宣伝上の企図たるとを問はず之を強調し、若くは伸張する為記事の軽微なる細部を過度に強調すべからず
九、如何なる記事をも剴切なる事実若くは細部の省略に依り之を歪曲すべからず
十、新聞の編輯において如何なる宣伝上の企図たることを問はず之を実現し、または伸張する目的を以て如何なる記事をも之を不当に顕著ならしむべからず
                      最高司令官代理
                         ハロルド フエア陸軍中佐
                               参謀副官補佐官」
つまり、「日本に与へる新聞紙法」の覚書は、9月21日に発表されたというのである。
しかしすでに、9月19日~20日の『朝日新聞』(東京版)は、新聞発行停止の命令を受けていて、この件については、9月21日付紙面に(9月20日の日付で)社告を掲載している。「朝日新聞東京本社はマツクアーサー最高司令官の命令により本月十五、十六、十七日付掲載記事中マツクアーサー司令部指示の新聞記事取締方針第一項「真実に反し又は公安を害すべき事項を掲載せざること」に違反したものありとの理由によつて十八日午後四時より廿日午後四時まで新聞発行の停止を受けた、よつて十九日付および二十日付本誌は休刊の止むなきに至つたが、二十一日付は特に四頁に増頁して三日間における記事、写真を収載しました」というのである。
とすると、この発行停止は、プレスコード公表前に規制が行われた一例と言える。社告中には「新聞記事取締方針」と記されているだけだが、不思議なことに、朝日新聞記事データベースで「プレスコード」と検索すると、この9月21日付紙面の社告が出てくるのが興味深い。『朝日新聞社史 昭和戦後編』(1994年)では、口絵に9月23日付紙面を掲載し、キャプションで、「9月19日に「プレス・コード」(新聞準則)を発表」としているのだから、やや矛盾した扱いのようにも感じるが、データベース作成時に、工夫して入力していることがわかる一例だ。

さて、『アサヒグラフ』の紙面にもどると、「連合軍内地へ進駐」(9月5日号)は、6ページにわたる大特集である。続いて「連合軍九州へ進駐」(9月15日-25日合併号)、民間情報教育部(CIE)提供の「最近米国の科学」(10月5日号)と、アメリカ寄りの話題が増えていく。
「初めて見るマリアナB二九基地の全貌」(10月5日号)は、飛行場や貨物港だけでなく、照明設備が完備した野球場、野外劇場、放送局、病院などの写真を載せるが、米軍のグラフ誌『YANK』(AMERICAN EDITIONの8月24日号)からの転載である。本文記事は、「我が敗北が時間の問題であつた事は疑問の余地がない」、「アメリカの厖大な機械力は僅々半年余で絶海の珊瑚礁上に忽然として近代的大空軍基地を現出せしめてしまつた」と書く。グアム島のアプラ港に「船を入れるため約六百万立方碼の珊瑚が港外へ除去された」というのは、自然保護の観点からは乱暴ではあるけれど、もちろん戦時下の話だ。
「英字の大氾濫」(10月15日号)は、「坊主憎けりや袈裟まで憎い」と英語を廃止してきた流れから一変し、英字が氾濫するようになった町の様子を伝える。
10月25日号表紙の「時速七四五粁の新鋭機」の文字を見て、また米軍機の話だと思ってページをめくると、大日本帝国海軍が最後に開発した局地戦闘機震電」の写真なのでびっくり。連合軍に接収される機体を「惜しや実戦に間に合はず」と2ページにわたって紹介している。実に美しい機体だが、タカアシガニのように腰高だ。三点着陸訓練で育った海軍の戦闘機乗りが、これを乗りこなせたかどうか。
武器よさらば!」(11月5日号)は、「進駐軍の手によつて整理されつゝある」九州の戦車や高射砲、軍用機の姿である。「想へばこの夥しい武器の為に我々は総てを捧げたのであつた、乏しい財布から国債を、貯金を、税金を……」。そして「今や我々は敗残の身を餓死の一歩手前で食止めることに必死になつてゐる」
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「最高時速七四五キロの「震電」」『アサヒグラフ45年10月25日号(グラビア印刷)。
 
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武器よさらば!」『アサヒグラフ45年11月5日号(グラビア印刷)。
 
12月15日号では、数か月前まで延べ300万人が掘っていた長野県松代の地下大本営のことを、「日本一無用の長物」と揶揄してみせ、45年最後の号である12月25日号の表紙には、積み上げられて壊される日本軍用機の写真を載せている。この写真には、「葬送行進曲“軍国日本の翼”」というキャプションがつけられている。敗戦4ヶ月で、航空機や武器の処分がかなり進んでいたことが、記事から見えてくる。
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左:『アサヒグラフ45年12月15日号表紙(グラビア印刷)。キャプションは「聖上 議会に親臨 優渥なる勅語を賜ふ(貴族院にて謹写)」。右:『アサヒグラフ』45年12月25日号表紙(グラビア印刷)。キャプションは「葬送行進曲“軍国日本の翼” 米進駐軍提供写真」。
 
注目したいのは、9月5日号から人物紹介ページができたこと。10月5日号で市川房枝(「婦選の古強者」)、12月25日号では文部省文化課長・今日出海(「作家、初のお役人」)にインタビューして記事を書いているのが、「伊沢記者」だ。45年12月から副編集長になり、のちに『婦人朝日』編集長を経て、『アサヒグラフ』編集長として活躍することになる伊沢紀(劇作家・飯沢匡の本名)である。

53回 『LIFE』に掲載された「KAMIKAZE」

大東亜戦争」に負けて、それまでの価値観からガラリと転換する。
敗戦を乗り越えて、戦後まで生き延びた雑誌は、新聞社系に多い。
毎日新聞社の週刊誌『サンデー毎日』は、1940年秋にB5判の「新体制規格版」になり(37回参照)、43年2月から45年末まで『週刊毎日』という誌名になっていたが、終戦直後は、表紙は本文と共紙で、表紙とも16ページの時代である。45年11月4日号に掲載された「米軍から見た神風特攻隊」のリード文には、以下のように記されている。
「これはアメリカの大衆雑誌「ライフ」七月卅日号に「カミカゼ」と題して掲載された記事を訳出したもので傍みだしには「日本の航空機いまや自爆機と化す、特攻精神を有する搭乗員は名誉の戦死を覚悟、戦果を挙げ得ず逆にジョン・ハルゼー麾下により損害を蒙る」とある。もちろん終戦前に発刊されたものであり、恐らくは沖縄決戦の最中に書かれたものと思はれるので、当時の状況を考慮に入れて読む必要があるが、あの「神風特攻隊」を米軍側がいかに見てゐたか、を知る上に深い関心のそそられる読みものたるを失はない。敢て原文のまま紹介する所以である」(「米軍から見た神風特攻隊」『週刊毎日』45年11月4日号)。
かつては、LIFE』に掲載された記事を引用して、いかに敵(米国)が残虐残忍で、悪質なプロパガンダをしているか、各雑誌が訴えてきた(42回参照)ものだが、この『週刊毎日』のリード文は、一転して、『LIFE』の記事内容に相当の客観性を認める書きぶりになっている。
LIFE』45年7月30日号(本文80ページで用紙は薄め)の「KAMIKAZE」から転載された図版は、44年10月、レイテ沖海戦で空母スワニー(記事中では「スワネ」)の艦橋に体当たりする「カミカゼ」を撮影した連続写真である。もとの記事には、沖縄沖の戦闘でカミカゼ攻撃を受けた駆逐艦ラフェイに、22機の特攻機がどのように攻撃したかという図解や、自爆攻撃機・桜花の絵や写真なども掲載されていたが、『週刊毎日』には使われていない。日本人には、実際に特攻機が体当たりする瞬間が一番気になるものであったからだろう。49年に公開された映画「日本敗れたれど」でも、特攻機の突入シーンが一番の話題であったという(「日本敗れたれど」は、『占領期雑誌資料大系 大衆文化編 第5巻 占領から戦後へ』(岩波書店2009年)にDVDで添付されている)。イメージ 1
「米軍から見た神風特攻隊」『週刊毎日』1945年11月4日号(厚み0.12ミリ、活版印刷)。
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KAMIKAZE」『LIFE』45年7月30日号(厚み0.06ミリ、活版印刷)。写真に矢印で示され、垂直に降下してくるのが特攻機で、左から接近するのが、迎撃する米軍の艦載機ヘルキャット
 
『週刊毎日』45年11月4日号の「米軍から見た神風特攻隊」の本文記事は、LIFE』45年7月30日号の「KAMIKAZE」から翻訳転載されたものだが、「特攻機は欧洲における音響爆弾と同じやうに、最早太平洋戦局を覆へすことは出来ない」、「四月になりB29の爆撃が成功するに至り、ニミッツ提督は、太平洋作戦においてはじめて日本機をその補充能力以上に撃破することが出来るやうになった、と報じている」と、米軍に有利な戦況を記している。次に、「日本では一九四四年の夏から秋にかけて、特攻隊を組織した」と、特攻隊の成り立ちについて書き始め、それ以降の特攻隊の出撃の様子を解説している。たとえば、「自爆のためにただ一回の飛行しか出来ないやうな旧式の搭乗機を与へられ大いに落胆する」とか、「「靖国神社で再会しよう」などと熱狂的にいひつつ訣別する」、「決死飛行の前夜衣服全部を与へてしまつたためか褌一つと思はれる者もあつた」、「極く僅かながら中には熱狂的な精神を持つてゐないものがある」など。後半では、戦後「人間爆弾」として語られるようになる自爆攻撃機「桜花」を「バカ」(BAKA BOMB)として紹介する。そして記事の末尾を、「日本人はまだかつて一回も負けたことがないといふ歴史から、また、だしぬけの発端によつて戦争が始められ、また奇妙な狭い頭で生み出した気狂ひじみた特攻精神から勝つと信じている」、「日本人は他の国民の到底出来ないことを成しとげた。それは組織された自殺行為であり、国家的の病的行為である」と締めくくっている。
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KAMIKAZE」『LIFE』45年7月30日号(厚み0.06ミリ、活版印刷)。「BAKA BOMB」としてイラストで紹介されている自爆攻撃機・桜花。
 
「奇妙な狭い頭」という言葉から思い出すのは、『LIFE』37年8月30日号(本文104ページで、用紙も厚めの0.11ミリ)のTHE JAPANESE:THE WORLD'S MOST CONVENTIONAL PEOPLEである。「日本人:最も因習的な国民」と訳され、国辱的な記事に写真が悪用されたと紹介された有名な記事だ。今日から見れば、「オリエンタリズム」の視線として多面的な解釈ができるが、それほど侮辱的な色合いは感じない。好奇心あふれる外国人旅行者の目に異国情緒と映るであろう日本的風習が集められているにすぎない(巻末に近い写真クレジット欄には、NATORI from B. S. や、M. HORINO、THE TOKYO ASAHI、などの名が見える。つまり名取洋之助や堀野正雄、東京朝日新聞社などの写真が使われているのである。B. S. というのは、米国の通信社ブラックスターのこと。名取はブラックスターを通して配信し、堀野は直接配信していたことが、このクレジットからわかる)。 イメージ 4
THE JAPANESE:THE WORLDS MOST CONVENTIONAL PEOPLE『LIFE』37年8月30日号(厚み0.11ミリ、グラビア印刷)。1冊の中で、活版印刷グラビア印刷を使い分けている。
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THE JAPANESE:THE WORLDS MOST CONVENTIONAL PEOPLE『LIFE』37年8月30日号(グラビア印刷)。
 
掲載当時、この「日本人:最も因習的な国民」は、国辱的なグラフ記事として、写真雑誌で何度もとりあげられた。比較的リベラルな人物であったと思われる鈴木八郎(『カメラクラブ』編集長)でさえ、これを「如何に写真が逆用されるか、という実例」として取り上げている。「男女混浴の或温泉場内の写真、草履を抜いである廊下の上に食膳を置いてお辞儀をしてゐる宿屋の情景等の報道写真であるが、吾々がこれを見ても唯微笑を以つて眺め得るであらうが、然しこれはアメリカに送られ、日本はかくも文化の低い国である、と云ふ実例として扱はれ、非常に大部数発行のグラフイツクに掲載されたと云ふのだから、それがどんな効果を挙げるか思ひ半ばに過るであらう」(鈴木八郎「「貧しき家の子」を批判する」『カメラクラブ』38年6月号)。
「日本人:最も因習的な国民」を批判する側の頭には、盧溝橋事件直後に書かれたLIFE』の記事だから、悪意と皮肉のこもった論調で書かれているはずだという思い込みがあるのだろう。実際に「文化の低い国」であるかどうかよりも、どのように評価されているかに過剰にこだわる一方で、日本は一等国だという妄想が「奇妙な狭い頭」に満ちていた時代である。しかし当時の日本は、女性の参政権さえまだ獲得できていない。
「日本人:最も因習的な国民」にまつわる議論のうち、注目に値するのは、『フォトタイムス』39年3月号の座談会「今後の写真はこうでありたい」で開陳された土門拳の意見である。
「廊下のお膳の問題ですが、――略――あゝいふことは我々がやつて居るとまゝ起り勝ちである。起り勝ちでも、それは日本が強くさへなれば差支ない。さう神経質になることはないといふことは非常な達見であると思ひます。アメリカには写真を使つた大衆雑誌が沢山あつて、それには大部分のセクシヨンはギヤングの写真、死体とピストルと裸体さういふものを中心に出して居るのであります。検閲制度が日本なんかと違ふやうですが、それを少しも恐れずに対外にばら撒かれて居る。それを見て私はアメリカを一つも軽蔑する意味はない。それを平気で外国人の前に曝け出して居りながらびくともしないデモクラシーといふものに打たれるのであります」。
報道と出版の自由こそデモクラシーの根幹であると見極めた土門の発言は、70年後に読む我々の心にも響いてくる。土門の強い姿勢は、のちに「対外宣伝雑誌論」(『日本評論』43年9月号)で物議を醸す論点(「印刷資材や人手の足りない時代にこんな大同小異のつまらない雑誌を何んで幾種類も作る必要があるのか」)(43回参照)にも通底している。

52回 「断ジテヤレ」――『写真週報』最終号

 A3判8ページだった『写真週報』は、366号(1945年4月11日)からA4判16ページになる。用紙の厚みは0.12ミリで変わらないので、紙の使用量自体が減るわけではない。しかし、判型を半分の大きさにすることで、製版フィルムの有効利用や運搬の容易さなどに、メリットがあったのだろう。A2判の紙を2枚重ね、それを二つ折りにしたもの(ここまではA3判時代と同じだが、厳密に言えば、紙の目が逆になるはずである)を、もう一度二つ折りにしているが、仕上げ断ちはされないままなので、読むときには下辺をナイフ等で切り開く必要がある。

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    A4判とA3判の大きさ比較。『写真週報』367号表紙・裏表紙(1945年4月18日、A4判、
     グラビア印刷)と、361-362合併号表紙(45年3月7日、A3判、グラビア印刷
 
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   「敵米軍陸上機」『写真週報』369-370合併号(45年5月9日、A4判、グラビア印刷)。中央の
    ページ(8~9ページ)を、A3判時代と同様に見開きで、なおかつ横倒しにして使っている
 
 A3判時代の表紙のスローガン「時の立札」から部分的に引用すると、「油は兵器の血液だ」(321号、44年5月17日)、「工夫と汗のあるところ 都心にも麦は稔る」(325号、6月14日)、「君等の造る翼もて空を覆はん」(326号、6月21日)、「もつと 造らう もつと 大切に使はう 戦ふ紙を」(344号、10月25日)、「送り出せ 魂こめた飛行機を」(348号、11月22日)、「造れ! 木製飛行機」(358号、45年2月7日)と、兵器から軍需物資、食糧まで、増産を繰り返し呼びかける一方で、「断じて 撃つのみ」(327号、44年6月28日)、「勝て勝て 勝つんだ」(328号、7月5日)という、観念的な掛け声も混じっている。
 本土空襲が激しくなって、物量で圧倒されていることが誰の目にも明らかになると、「戦ひの激しさ 神州を覆ふ あゝ全機特攻 重ねて言ふ 全機特攻」(356号、45年1月24日)と、負け戦を前提としたようなスローガンになる。最後は、最善を尽くし祈りを捧げるという、宗教的な境地へと向かい、「常に勝つことをのみ考へ 勝つことに総てを捧げよ われらの父祖はこれをなしたり」(361-362合併号、3月7日)、「怒りをこめ 祈りをこめ くぢけぬ心あるところ 必ず勝つ」(363号、3月14日)などと、滅びの美学に酔うような、奇妙な陶酔感が増してくるのである。
 A4判になってからの表紙のスローガンは、かなり短くなる。「この翼 この腕に 勝機かゝる」(367号、45年4月18日)、「一人 以て 国を興す 特攻精神なり」(368号、4月25日)、「装ひ清く はればれと 若き神々は征く 勝つ国の大き御楯と」(371号、6月1日)、「食糧増産に全力を挙げよう」(372号、6月11日)、「七生尽忠 以て皇土を護らん」(373号、6月21日)。
 
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    『写真週報』369-370合併号(1945年5月9日)、371号(6月1日)、372号(6月11日)、
          373号(6月21日)の各表紙(いずれもA4判、グラビア印刷
 
 そして最終号になる374-375合併号(7月11日)にはスローガンは印刷されず、「ラバウル化された地下陣地内」で作戦を練る参謀たちの背後の、床の間のような壁には、「断ジテヤレ」と書かれた絵馬状の板が掲げられている。
 
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     『写真週報』374-375合併号(45年7月11日、A4判、グラビア印刷)の1ページ(表紙)、
      16ページ(裏表紙)、8~9ページ(中央の見開き)。表紙には「断ジテヤレ」と
      書かれた絵馬状の板が写っている。刊行された最終号とされるが、切り開かれず
                   に残存している例が多い

51回 3月10日の東京大空襲(3)

1945年3月10日の東京大空襲について『写真週報』が初めて報じたのは、3月28日発行の364-365合併号だった。『写真週報』は、総花的構成の『アサヒグラフ』に比べると特集主義で編集されている。A3判時代の『写真週報』は表紙とも8ページ(裏表紙は漫画と雑報)。この号は、第1特集が大空襲後の東京で、表紙を入れて5ページ分を使っている。第2特集が硫黄島の「総攻撃」(いわゆる玉砕)で、2ページ分を当てている。『アサヒグラフ』3月28日号(表紙とも16ページ)と、記事の構成を比べると、性格の違いが見えてくる。
前の週に東京大空襲を報じた『アサヒグラフ』は、3月28日号では、特集タイトルこそ「帝都戦災者の新生へ」だが、表紙は「本土制空の陸海航空部隊勇士」の写真(下の1枚は、3月20日の『朝日新聞』に掲載されたものと同じ)である。
それに対して、『写真週報』表紙の写真は、「早く焼跡を片づけて決戦農園に、と意気込む東京都神田区内の某隣組の人々」。題字下のスローガン「時の立札」は、「のこらず 耕せ くまなく 蒔け 皇土こぞりて 勝利の糧の母たらん」と謳う。表紙下には、「焼跡で育つ春まき野菜」が7種並んでいる。まるで、東京が焼けてよかった、畑ができる、というような明るい雰囲気であり、空襲を受けたときの人々の恐怖などは、感じられない。
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アサヒグラフ1945年3月28日号表紙(B4判、厚み0.08ミリ、グラビア印刷)と、『写真週報』364-365合併号表紙(45年3月28日、A3判、厚み0.12ミリ、グラビア印刷)。
 
そして、『写真週報』中央の4~5ページには、3月18日に深川の富岡八幡宮の焼跡を歩く天皇の写真「畏し 天皇陛下 戦災地を御巡幸」を大きく載せている。『写真週報』は「壁写真新聞」として活用されるのを期待されていたが、いかにも好適な題材である。次の6~7ページに、空襲を受けた浅草仲見世、被災者の集団疎開などをこまごまと取り上げているのと対比すると、レイアウトのメリハリが感じられる。
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「畏し 天皇陛下 戦災地を御巡幸」『写真週報』364-365合併号(45年3月28日、グラビア印刷)。
 
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「この仇討たでおくべき 一日も早く戦列へ!」『写真週報』364-365合併号(45年3月28日、グラビア印刷)。
 
アサヒグラフ』では、同じ「天皇陛下 戦災地を御巡幸」の写真(新聞各紙には3月19日に掲載された。YouTubeでは、このときのニュース映像を見ることができる。http://www.youtube.com/watch?v=wR-6I8NUBTs)は、長野県へ集団疎開する被災都民を追った記事「この憤激を滅敵の戦力へ」と一緒の見開き(2~3ページ)に割り付けられ、2分の1ページの大きさで掲載されている。集団疎開の記事は、「未練がましくいつまでも焼跡を掘り返して居てもこの危局下の戦力に何ものをも加へぬ」のだから、「戦力の大きな源である食糧確保に農村へ行つて働こう」と励ます論調である。「春陽は山野に充ち充ちて、食糧戦への突撃喇叭は鳴り渡つてゐる」と元気だが、左下の写真(長野県湖南村)の山々にはまだ雪が残る(この写真も、3月20日の『朝日新聞』に掲載されたものと同じ)。
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「この憤激を滅敵の戦力へ」『アサヒグラフ45年3月28日号(グラビア印刷)。「天皇陛下 戦災地を御巡幸」は、コラム風に2分の1ページの大きさで掲載されている。
 
アサヒグラフ』には、速報性から離れた埋め草的な記事が続く。「火を吐く制空砲陣」(4~5ページ)は、手持ちの写真で構成したような記事だし、「翼を生み出すこの労苦」(6~9ページ)という記事も、「近代戦には厖大な航空機が要る。その消耗量は想像に絶する。しかも敵は攻勢に猛り立ち、我は残念ながら守勢だ」というリード文に緊迫感があるだけで、設計から生産まで、すべて海外の写真が使われている。機密上、日本の飛行機工場は見せられない部分があるとしても、臨場感に欠ける記事だ。「雄々し女子通信隊」(10ページ)、「あひるを飼はう」(11ページ)、漫画「推進親爺」(12ページ)、「B二九撃墜王故遠藤中佐」(13ページ)と続き、「猛り立つ驕敵」(14~15ページ)で、「三月十七日以来同島よりの通信が杜絶するに至つたのは、真に遺憾の極みである」と記しているのが、いくらか速報性のある記事と言えるだろうか(15ページに「次号(四月五日号)から本誌は旬刊制に」という告知が載る――50回参照)。最終16ページ(裏表紙)は広告である。
こうして見ると、『アサヒグラフ』の速報性のある記事には、新聞本紙に使われたのと同じ写真が使われていること、そして、この時期の最大のテーマのひとつが、食糧問題であったことに気がつく。