戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

64回 朝日新聞社の『支那事変画報』と『アサヒグラフ』を比較する

日中戦争開始後、朝日新聞社が刊行した戦争報道グラフ『支那事変画報』(週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊)と、週刊のグラフ誌『アサヒグラフ』は、よく似た雰囲気の表紙だった。
しかし、表紙をめくって本文を見比べると、重要な相違点に気がつく。『アサヒグラフ』の本文中には、小さな広告が割り付けられているのに対し、『支那事変画報』には広告がない(だから、すっきり見える)。つまり、『支那事変画報』は『アサヒグラフ』に似た体裁だが、雑誌扱いではなく、単行本扱いなのだ。
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アサヒグラフ』(特輯支那戦線写真第十二報、1937128日号)のレイアウト。広告は、富士フイルム、オリエンタルなど、写真関係の企業が多い。
 
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支那事変画報第八輯』(週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊、19371122日)のレイアウト。『アサヒグラフ』に比べると、文字が多いが、広告がないのですっきりとしている。写真を斜めに傾けるところは、『アサヒグラフ』に似たレイアウトだ。
 
朝日新聞社刊行の『支那事変画報』で、唯一広告が載るスペースは、裏表紙の内側の面(いわゆる表3)である。記事の一部として、地図や図表のスペースに充てられることもあるが、広告を載せるときは、自社広告に限定している。表3の自社広告の例として、『支那事変画報第四輯』(1937920日)と『支那事変画報第五輯』(1937105日)を見てみよう。
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週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊」の『支那事変画報第四輯』(1937920日、左)と『支那事変画報第五輯』(105日、右)の表3広告。
 
支那事変画報第四輯』掲載の広告では、「アサヒグラフ」という文字ばかりが、大きく目立つ。『北支事変画報』と『日支事変画報』は臨時増刊だから、まだ『アサヒグラフ』の付属物といった存在だ。ところが『支那事変画報第五輯』掲載の広告では、『日支事変画報』(すでに第四輯から『支那事変画報』と改題しているのだが……)と『アサヒグラフ』を対等に並べ、「支那事変写真」を掲載するメディアに、ふたつの流れがあることを矢印で示している。『日支事変画報』バックナンバーの下には、「各輯共再版が出来ました」と記されている。臨時増刊と称しながら、すでに定期刊行が決まっていたのだろう。「永遠に遺る事変戦線写真画報」というコピーは第四輯と同じだが、それに続けて、「第一線で活躍する我が勇敢なる将士の辛苦を偲び感謝するために! 銃後の御家庭に是非各冊を取揃へてお備へ下さい」と、読者の感情に強く訴える宣伝文になっている。また、広告ページの地は日の丸の絵柄になっている。戦後書かれた朝日新聞出版局史』(朝日新聞社出版局1969年)は、「日中戦争が徹頭徹尾、日本の侵略戦争であっただけに、当時これら雑誌の編集に従事していた同人たちの思いは辛いのである」と記すが、広告を見る限り、戦争を支援・肯定する気分がなかった、と断言することはできない。少なくとも、戦争を機に売上部数を伸ばそうという意欲は満々である
これに対して、大阪毎日・東京日日新聞社刊行の支那事変画報第5輯』(1937年9月21日)は、「事変の生きた記録、好個の記念写真帳」と謳って、第1~4輯の広告を本文中に載せているが、18×5センチという小さなスペースで、とても地味である。ちなみに、この広告では本画報の判型(四六4倍判)を「サンデー型」と呼んでいる。
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大阪毎日・東京日日新聞社の『支那事変画報第5輯』(1937921日)本文中に掲載された自社広告。

63回 朝日新聞社と大阪毎日新聞社・東京日日新聞社の『支那事変画報』

『毎日グラフ』が創刊されたのは19487月(創刊当時の表紙ロゴのデザインの変遷については、23回で触れた)。当初は月2回刊。ライバルは、23年創刊のアサヒグラフ』だ。『アサヒグラフ』は、戦争末期に旬刊になった(50回参照)が、476月には週刊に戻っていたし、飯沢匡副編集長によって46年初めから展開されていた諷刺路線も、2年半たって、円熟期を迎えていた。『毎日グラフ』は、刊行頻度においては、先行する『アサヒグラフ』にかなわないが、ライバルの長所を見習いながら、丁寧に製作できるから、内容は充実していた(24回、22回などを参照)。
両誌とも、大新聞社ならではの組織力(全国に張り巡らした支局網と、日刊新聞用の速報力)を前提にしたニュース系の総合グラフ誌で、目指す方向は変わらない。B4判のグラビア印刷だから、用紙にも大きな違いはない。その上、どちらも味つけは諷刺路線だ。
しかし、手に取って記事の組み立てかたを味わってみると、全体の雰囲気・風合いに、かなりの差があることに気づく。『アサヒグラフ』の諷刺が、軽妙洒脱と呼ぶべき繊細なお上品路線であるのに比べると、後発の『毎日グラフ』の諷刺は、駄洒落と地口で爆笑を誘う、骨太でお気楽な大衆路線で、デザインも切れ味がよい。
『毎日グラフ』が、アサヒグラフ』より気楽な大衆向けの気分を発散できたのは、なぜか。その理由は、ふたつあると思う。
ひとつは、24回でも触れたように、伝統的に朝日はインテリ向けで、毎日は大衆向けという社風が定着していたこと。もうひとつの理由は、数年前までの戦争に対する関与の深さの違い、つまり、組織を挙げて戦争に協力したことへの反省の度合いの差からくる、戦後の方針の違い――羽目を外さず慎重に進める朝日と、比較的おおらかな毎日――があるように思える。
朝日新聞社毎日新聞社43年に社名を統合するまでは、大阪毎日新聞社東京日日新聞社)が刊行した、戦中の雑誌の流れを比べると、総合出版社的に雑誌を展開して積極的に売り上げを伸ばした朝日と、いかにも新聞社らしいジャンルから無理に広げずにいた毎日との差が、くっきりとしてくるはずだ。
まず、朝日新聞社はどうか。
日中戦争開始直後の37730日創刊の『北支事変画報』(四六4倍判)は「週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊」と謳う。大阪発行の『週刊朝日』と、東京発行の『アサヒグラフ』という2つの雑誌の増刊を兼ねるという形はめずらしいが、そのため、発行所は東京・大阪を併記した朝日新聞社となっている。しかし、編輯兼発行兼印刷人は『アサヒグラフ』と同様に、東京朝日新聞発行所の星野辰男であり、実質的には『アサヒグラフ』編集部の仕事であったのだろう3輯は『日支事変画報』、4輯からは『支那事変画報』と改題されて、408月まで35輯刊行された。全頁グラビア印刷で、第1輯は表紙とも32ページで25銭。特派員による文字情報が多めだが、レイアウトは通常号の『アサヒグラフ』(表紙とも36ページで25銭)にそっくりである。
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週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊」の『北支事変画報第一輯』(朝日新聞社1937730日)と『北支事変画報第二輯』(815日)。
 
注目すべきは、増刊の『北支事変画報』のスタートと同時に、通常号の『アサヒグラフ』にも、戦争報道の特集ページを毎週掲載するようになることだ。37728日号の表紙には大きく「特輯北支事変画報第一報」と記されるが、これでは、臨時増刊の『北支事変画報』と区別がつかない。4報から「特輯北支戦線写真第○報」、7報から「特輯日支戦線写真第○報」と変わり、9報から「特輯支那戦線写真第○報」(のちには、「特輯」の文字がなくなる)となって、以降39111日号(117報)まで毎号、この文字を掲げる。臨時増刊の『支那事変画報』は、当初はほぼ月2回刊、のちにはほぼ月刊だから、通常号の週刊『アサヒグラフ』と合わせると、月に56冊の戦争報道グラフ誌面を、この時期の朝日新聞社は展開していたのである。
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週刊朝日アサヒグラフ臨時増刊」の『支那事変画報第四輯』(1937920日)。同時期の『アサヒグラフ929日号には、「特輯支那戦線写真第十報」と大きな赤文字が掲げられ、特集グラフページは全体の過半に及んでいる。
 
対抗する毎日新聞社大阪毎日新聞社東京日日新聞社)が刊行したのは、同じ名の『北支事変画報』(3783日創刊、四六4倍判、グラビア印刷、表紙とも32ページ、20銭)であり、4輯からは、やはり『支那事変画報』と改題する。4112月まで101輯を数えるが、日米開戦を機に改題して、月刊の『大東亜戦争画報』となって454月まで通巻142輯となっている。
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『北支事変画報第一輯』(大阪毎日新聞社東京日日新聞社193783日、四六4倍判)と『支那事変画報第百一輯』(41128日、B4判)。次号の102輯から『大東亜戦争画報』と改題する。
 
朝日系の『支那事変画報』が、2輯から表紙に赤版(グラビア印刷の墨版に対して、赤版はオフセット印刷である)を使って、いかにもプロパガンダグラフらしい体裁になるのに比べ、毎日系の表紙は、ずっと墨版一色で地味だ。毎日系は、ほかには週刊グラフ誌を出していなかったから、朝日系の戦争報道グラフが月56冊に対して、毎日系は月2冊平均ということになる。
むろん、これらの戦争報道グラフは、読者である出征家族にとっては、愛する夫や息子がどこかに写っていないかと待ちわびる出版物であった。『朝日新聞出版局史』(朝日新聞社出版局1969年)は、『支那事変画報』は初刷平均8万部という好成績であり、「印刷すればしただけ売切れるという時代であった」と記している。

62回 伊藤逸平の『VAN』が終わるとき

綜合諷刺雑誌と謳った『VAN』には、著名な漫画家、評論家、作家が執筆した。創刊号(19465月)だけ見ても、漫画では横山隆一近藤日出造麻生豊、加藤悦郎、小川武、利根義雄、横井福次郎、堤寒三、秋好馨、佐宗美邦、池田献児。エッセイ・評論では徳川夢声、室伏高信、津村秀夫。小説では木々高太郎などの名が見える

VAN』には探偵小説が掲載され、「VAN増刊号」として、探偵小説名作選集を出すなど、探偵小説への傾斜が目立っていた。発行元のイヴニング・スター社は、474月には純文芸雑誌『諷刺文学』(のちの『人間喜劇』、A5判)と探偵小説誌『黒猫』(B6判)を創刊して、諷刺と探偵小説路線を鮮明にした(すべての雑誌の編集兼発行人の名が伊藤逸平になっている)

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イヴニング・スター社刊行の、徳川夢声『柳緑花紅録』(VAN叢書、194612月、B6判)、探偵小説名作選集『二つの髯を持つ男』(VAN増刊号、471月、B6判)、『黒猫』創刊号(474月、B6判)、『諷刺文学』創刊号(474月、A5判)なども、河野鷹思の装丁河野は漫画風イラストからおどろおどろしい絵、書き文字まで、何でもこなす上に、すべてレベルが高いという突出した技倆のデザイナーである
 
イヴニング・スター社の刊行物の大きな特徴は、大部分の装丁を河野鷹思が手がけていることだ。『VAN』の活版組みの本文用紙は、他誌に比べると少々見劣りする材質で、印刷もムラがあって読みにくい。ページ数も、最大68頁程度である。にもかかわらず、60年後の現在から見ると、表紙、グラフページ、漫画ページのレベルが高いので、ずっしりとした存在感を感じさせ、蒐集したくなる雑誌なのである。しかし思うに、河野による表紙イラストは、大衆向けの雑誌としては高級すぎたのではないか。485-6月合併号(通巻20号)以降の『VAN』の表紙は、漫画家・横山隆一が描いているものが多く、いかにも大衆性を感じさせる仕上がりになっている。
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河野鷹思が描いた『VAN』の表紙(オフセット印刷)。左上から右へ19472月号、473月号、476月号。左下から右へ48年新年特輯号、482月号、484月号(47年4-5月合併号と7-8月合併号の表紙画像については、21回を参照)
 
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「異校小倉百人一首抄」(『VAN1948年新年特輯号)は8ページ構成の口絵グラビア。『アサヒグラフ4615日号に掲載された「はつわらひしんぱんいろはかるた」(59回参照)に似た趣である
 
さて、大宅壮一は『VAN』のグラフページの諷刺路線をどのように見ていたか
『毎日グラフ』連載の「写真時評」4931日号に、大宅は、「諷刺雑誌、バクロ雑誌となるとモンタージュやトリック写真による口絵グラフに毎月知恵をしぼり近頃は大部進歩してきたようだ。漫画的な誇張に、写真のもつ現実感を加味して、刺戟度を高めようというのがねらいである。その中で、一番知的で、創作的で、諷刺性も強いのは「VAN」で、二月号でも「キス・ユー」から始まるニュー・ルックの解剖を試みているが、すべてモデルを使い、なかなか凝つたものである。しかし少々凝りすぎてひとりがてんに陥つている傾向がないでもない」と書く
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左:大宅壮一が、『毎日グラフ』連載の「写真時評」で取りあげた口絵グラフ1949年型ニュールック集」(『VAN492月号、グラビア印刷)。中:再出発した498月号(VAN出版社、編集人:本田英郎、発行人:秋元義治、表紙はオフセット印刷)。右:499月号(VAN出版社、編集人:本田英郎、発行人:桜井道博、表紙はオフセット印刷)。
 
大宅の「写真時評」では、「諷刺雑誌」である『VAN』も「バクロ雑誌」と同等に扱われているが、このころの『VAN』は、世の中の反動的な空気のなかで、左翼雑誌的性格を濃くしていた。4810月号(通巻24号)の「編集後記」には、「初秋の今日この頃に、我々の焦燥をそゝるのは、何といつても危機に立つ労働運動の行手であらう。国家公務員法共産党公職追放案、非日活動調査委員会案、等々」と、左翼寄りの立場が窺える。そして、大宅がとりあげている492月号で刊行を中断し、イヴニング・スター社から切り離されてしまう。版元をVAN出版社にして再出発する498月号の「編集後記」は、「夏枯れ、首切り、スト、デモと社会相は急ピツチに悪化しそうだ。その時期によりによつて憎まれものゝVANが、再びあらわれ、大いに臍を曲げ、アマノジヤクになろうとするのである」と意気盛ん。目次を表紙に載せるなど、外観のリニューアルもして、わかりやすい雑誌をめざしたが、長続きしなかった(49年9月号が最終号か)。
2005524日、「アイビールック」を紹介して一世を風靡した石津謙介が亡くなった。謙介が設立した「ヴァンヂャケット」の商標「VAN」のもとをたどると、イヴニング・スター社の『VAN』に行きつく。49年の廃刊後、伊藤逸平から写真家・石津良介(謙介の兄で、元『写真文化』の編集者。『写真科学』に改題して3号目の1944年2月号まで編集長を務め、伊藤逸平に引き継いだ)を介して、「VAN」の名が譲られたのだという
 

61回 もうひとつの諷刺路線――伊藤逸平の『VAN』

アサヒグラフ』の諷刺路線は、大新聞社の歴史あるグラフ誌という器の中に、飯沢匡好みの諷刺を注ぎ込んだものだった。
それに対して、新しく諷刺雑誌という器をつくり、口絵写真でも諷刺路線を鮮明にしようとしたのが、綜合諷刺雑誌VAN』(イヴニング・スター社、19465月創刊、月刊、B5判)の伊藤逸平だ。
日大芸術学部卒の伊藤逸平の本名は伊藤武夫。戦時中最後まで残った写真雑誌『写真科学』の編集長であった(49回参照)。また、戦後の461月、同誌が創刊時の『カメラ』という名前にもどって復刊したときの編集長でもある(雑誌の奥付には、ワンマン社長の北原鉄雄の名が、「編輯兼発行人」として載るだけであるが……)

『カメラ』復刊に際して、伊藤は復刊号(461月号)巻末に「編輯者の抗議」という文章を寄せている。「雑誌を編輯するといふ事は、記事を積集する事ではない。そこには編輯者の主張がなければならない。過去幾年間の間、特に第二次世界大戦勃発以来我々編輯者に、人間として、社会人としての主張が許容されたであらうか。残念乍ら我我に許された事は馬鹿になつてゐる事と息をすることだけだつた」と記す伊藤にとって、自分の主張を『カメラ』誌の上で実現することが当面最大の課題であるはずであった(ちなみに8ページ仕立ての復刊号口絵グラビアには、真継不二夫、福田勝治、坂本万七、土門拳による人物写真各1頁の次に、「US ARMY SIGNAL CORPS提供」と記された「マックアーサー元帥」の肖像写真が載る。そして、その次の見開きには、55回で取りあげた『LIFE45910日号の空撮写真が再構成・転載されている

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伊藤逸平が編集長だった『カメラ』復刊号(461月号)に再構成・転載された『LIFE45910日号U.S. OCCUPIES JAPANの空撮写真。「ライフ誌・ジョーヂシルク氏撮影」とキャプションがつけられている
 
ところが、復刊から5号目の『カメラ』465月号「編輯後記」は、早くも編集長交代を告げている。新編集長・藤川敏行が、「「写真科学」発行以来その編輯責任者として縦横の手腕を振って来た伊藤逸平氏は、病気のため静養の余儀なきに至りましたので、本号を最後に勇退されることになりました」と記しているのだ。
もちろん伊藤退社の本当の理由は病気ではなく、「事業家の上村甚四郎氏と知り合い、出版社を始めたい、君ひとつやってくれないか、と誘われ」(木本至『雑誌で読む戦後史』新潮選書、85年)、売りに出ていたイヴニング・スター社の社名を買って編集局長兼専務取締役となり、465月にVAN』を創刊したためである。
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VAN』創刊号(左上)から6号(右下)までの表紙(表紙:オフセット印刷)。創刊号の表紙は横山隆一2号は池田献児、3号と4号はジャワから復員した小野佐世男が描いた。5号以降1年半ほど(48年4月号まで)は、鮮やかな色使いの河野鷹思のイラストが表紙を飾る
 
創刊号に掲載された「私の言ひ度い事」は、社長の上村甚四郎の名で書かれている。「〝VAN〟といふ文字をコンサイスで引くと前衛・先鋒・尖兵などといふ事になつてゐる本誌VAN〟は政治、経済、社会の汎ゆる腐敗面に対する力を持つた注射、つまり現象の歴史的過程に対する追究を命ぜられた尖兵であり前衛であらねばならぬ」と、尖兵であることを強く主張する。続けて「そこで、もう一度〝VAN〟をコンサイスで引いて見ると、もう一方の意味のある言葉が出て来る。荷車・囚人護送車、これである。成る程〝VAN〟は荷車の如き重量と絶えまなき活発な律動を持ち、囚人護送車の如く質実なる前進を見せたい」と目標を掲げている。同じ創刊号の「後記」では、「漫画に依つて養はれた現象批判力は大きく且つ鋭い」と述べるように、創刊当初から漫画を多用し、表紙は最後まで漫画(諷刺画)で構成された。めざすものは「塩辛に唐辛子をふりかけたやうな」(第1巻第3号「後記」)辛口の諷刺であり、政治も風俗も積極的にとりあげたから、『アサヒグラフ』よりずっと過激な印象である
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伊藤逸平が手がけ、工夫の凝らされた『VAN』初期の口絵グラビア。左:「裸の政治」(『VAN11号、465月)、右:東京裁判被告たちの顔を並べた「世界の顔」(『VAN14号、479月)。
 
伊藤逸平が直接手がけたという巻頭のグラビアページは、彼の写真雑誌編集者としての経験が生かされた。とくに初期は、マン・レイ風の写真の使い方や、不思議なモンタージュなど、手の込んだ口絵になっていた。桑原甲子雄は、『私の写真史』(1976年、晶文社)で、「『VAN』という伊藤逸平編集の雑誌のグラビアを手がけたこともあった」と記している(桑原は、伊藤が『カメラ』誌から去った2年後の1948年秋にアルスに入社し、11月号から『カメラ』編集長として活躍する)。
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キャプションで諷刺の気分を盛り上げる『VAN』の口絵グラビア。左:「煙」(『VAN15号、4610月、撮影:箕輪修)、右:「日本国憲法」(『VAN16号、4611月、撮影:箕輪修)

60回 飯沢匡のプライド――『アサヒグラフ』と『婦人朝日』

飯沢匡(本名・伊沢紀)は、「アサヒグラフの副編集長に任命されてから、このグラフ雑誌に没頭した。生れつき視覚型の、何でも具体的に物を把握しないと気がすまぬ私には、まことに打ってつけの仕事であったから、仕事が面白くて仕方がないのであった」(『権力と笑のはざ間で』青土社87年)と書いている。たしかに1946年の初めから、写真のレイアウトも、ピリッとして気が利いたものになっている。

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「危険も公徳もあらばこそ」『アサヒグラフ1946年1月15日号(グラビア印刷)。上の3枚の写真は、それぞれ別の車両を別の角度から撮ったものだが、屋根の線をパノラマ写真のようにつないで、スピード感を表現している。
 
従来タブーだったところにレンズを向けた写真が、たびたび掲載されるのも、この時期の特徴だ。ハンセン病療養所栗生楽泉園を撮影した「わが生を愛す――国立癩療養所を訪ねて――」(46年12月5日号)、和歌山刑務所を取材した「女囚その日その日」(47年新年特大号)、「心を病む群――松沢病院にて――」(47年2月25日号)、「カメラ伊勢神宮に入る」(48年新年特大号)、「カメラ宮城に入る」(48年2月11日号)などがある。
読者が驚くような珍しい写真という意味では、埼玉県川口市NHKアンテナ塔から撮った「東洋一の高塔を攀る――空中写真戦後版成る――」(48年新年特大号)が目立つ。この企画も飯沢が考えたものだが、高所に強い写真部カメラマン船山克が体を張って撮っている。戦中は高所から眺めることさえ禁じられ、占領中は飛行機を飛ばせなかった日本では、空中写真は貴重なものだ10年前の1937623日号で、「完成の日近き東洋一の大放送所」として、完成直前の姿は紹介されていたが、塔に登って撮った写真が発表されたのは初めてだろう
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東洋一の高塔を攀る」『アサヒグラフ48年新年特大号(1月7日発行、グラビア印刷、撮影:船山克)。遠方に富士山が白く見える。高さ300メートルを超す川口市NHKアンテナ塔は37年に建てられ、東京タワーが建つまでは日本一の高さだった
 
しかし、飯沢がつくりだした新しいスタイルは、グラフページだけではない。
46年8月5日号から、編集長の提案で、巻末に冗談と諷刺の「玉石集」(題名は中島健蔵につけてもらった)という2ページの欄をつくったときは、詩人・矢野目源一や近藤東に戯文や諷刺詩を依頼する一方、自分も作家の文章の特徴を調べ、その作家が扱いそうもない題材を使って「文体模写」という知的な遊びに励んだ。ペンネーム「凡阿弥」が飯沢の作のようだが、48年に朝日新聞社から刊行された文庫判の『玉石集』には、ペンネームは記されず、作者の区別はできない。30年後に飯沢がまとめたエッセイ集『武器としての笑い』(岩波新書、77年)に、自作の「文体模写」を『玉石集』から再録していることからも、この仕事への飯沢の愛着の程がわかる。
飯沢は『武器としての笑い』に、「諷刺には日付がある。諧謔には日付がない」、「ユーモアには日付はないがサタイアには日付がある」(satireは諷刺、皮肉のこと)と繰り返し書いている。飯沢が手がけた諷刺は、日付のある笑いだから、雑誌掲載時には読者にストレートに通じたが、時代がたってから読むときは、当時の事情がわからなければ、その妙味が味わえないという意味だ。『玉石集』は、「時代背景を考えながら読む」という姿勢でページをめくれば、今でも十分楽しめるコント集である。
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「玉石集」『アサヒグラフ46年8月5日号(グラビア印刷)。この号から「玉石集」のページが新設された。右ページ上から2段目に「文体模写 羽仁五郎調」(凡阿弥・模)が見える。右は、文庫判のアサヒグラフ編『玉石集』(朝日新聞社、48年、表紙:オフセット印刷)。
 
飯沢が確立した『アサヒグラフ』の諷刺路線は、写真だけではなく、文字や漫画も使った総合的な路線であったところに特徴がある。彼は「生れつき視覚型」と自称していたが、案外他人にはそのようには見えず、理屈屋と思われていたかもしれない。そして、飯沢の諷刺の能力は、社会を捉える批評力や実際的な文章力として評価されていたのではないか。48年12月に、飯沢が『婦人朝日』編集長へ異動(51年11月に『アサヒグラフ』にもどり、編集長になる)したのも、そういう評価の反映のように見える。
朝日新聞出版局史』(朝日新聞社出版局69年)は、飯沢編集長時代の『婦人朝日』について、「きれいで目立つ表紙だったが、内容とちぐはぐな印象を与えた。読者の手記、投稿が多くなったが、全体に大きな変化は見られなかった」と記す。
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飯沢匡が編集長を務めた時期の『婦人朝日』。左上:49年8月号、右上:49年10月号、左下:49年11月号(B5判、表紙:オフセット印刷)。花や葉や貝に囲まれた女性という珍しいデザインの表紙。『朝日新聞出版局史』の筆者も、この表紙に目を奪われて、内容が刷新されたことまでは、気がつかなかったようだ。右下:50年9月号(表紙デザイン:伊藤憲治)。
 
『婦人朝日』に「私の作文」という欄をつくり、文章の書きかたについて啓蒙活動をし、名村笑子や大村しげなどの女性随筆家を育てたというプライドを持つ飯沢は、朝日新聞出版局史』を読んで激怒する。「この人は私に怨恨でもあるのではないかと疑った。なぜなら私は自分なりの婦人雑誌に対する考えをかなり色濃く出して誌面を一新したのである」。「「主婦の友」でもなく、かといって「婦人公論」でもないものを創り出したいと思っていた。いうならリアルな、時代や生活に根ざした借りものでない雑誌がつくりたかったのである」(『権力と笑のはざ間で』)。
『婦人朝日』49年11月号「私の作文」のリード文(飯沢の文章と思われる)の末尾には、こう記されている。「具体的に書くこと、概念的にならないことをくれぐれも忘れないで下さい」。これは、「時代や生活に根ざした」内容を、他人に伝えようとするときの大原則であろう。
飯沢が『アサヒグラフ』で展開した諷刺路線も、「私の作文」と同様、具体的かつ実際的な表現で、読者の気持ちに的確に命中するように組み立てる仕事であった。部員たちに説いた基本姿勢は、「変った視点から現象を把えること」「ひねった角度」「正攻法を避ける」だった
 
 

59回 『アサヒグラフ』の諷刺路線――副編集長・飯沢匡

1946年からの写真報道は、ふたつの路線に分かれて展開した。そのひとつ、民主主義とアメリカ文化紹介路線の例として、『旬刊ニュース』と『世界画報』を取りあげたが、『旬刊ニュース』は49年に実話雑誌になって終焉。『世界画報』は50年頃(正確な時期不明)に予約購読制の「画報誌」になって消えていった。アメリカ文化紹介の役割は、ティーンエイジャー向き読物雑誌『トルー・ストーリィ』(ロマンス社49年5月創刊)や、シアーズ・ローバック社の通販カタログを切り抜いてレイアウトした季刊ファッション誌『アメリカンスタイル全集』(日本織物出版社、49年9月創刊)などが、娯楽と実用性を伴った形で引き継いでいく。
 
さて、もうひとつの路線は、写真を使った諷刺路線である。諷刺とは、「1.遠まわしに社会・人物の欠陥や罪悪などを批判すること。2.それとなくそしること。あてこすり」(『広辞苑第五版』)である。ときには、批判のトゲを寓意のなかに巧妙に隠したりするから、権力にとっては苛立たしい存在だ。
写真を使った諷刺路線は、民主主義とアメリカ文化紹介路線にくらべると、格段に手の込んだ作業であり、センスと工夫が必要だが、この諷刺路線を切り開いたのが、『アサヒグラフ』である。
『毎日グラフ』については、以前に取りあげた(1回~4回、22回~25回参照)。48年7月創刊という後発の『毎日グラフ』が、のびのびと駄じゃれの世界で遊べたのも、『アサヒグラフ』が46年初めから軽妙洒脱な諷刺路線を展開していて、地ならしをしておいてくれたおかげだ。
アサヒグラフ』の諷刺のスタイルが、当時の副編集長、劇作家・飯沢匡(いいざわ・ただす)の個性と努力によって確立したことは、現在では定説になっている。54回でも簡単に触れた通り、飯沢匡の本名は伊沢紀(いざわ・ただす)で、『アサヒグラフ』の副編集長になったのは、『朝日新聞出版局史』(朝日新聞社出版局、69年)によると45年12月のことだ。飯沢自身は、副編集長を命ぜられたのは、敗戦直後という「価値転倒時代の副産物だったのかも知れない」(飯沢匡『権力と笑のはざ間で』青土社、87年)と書いている。
このころの『アサヒグラフ』は、45年4月以来の旬刊(5日、15日、25日刊)だ。45年は、増刊の大相撲秋場所特別号(12月20日発行、表紙2色印刷、表紙とも28ページ+別冊「秋場所総決算座談会」16ページ)以外は、表紙とも16ページ。表紙は本文共紙で、墨1色のグラビア印刷であった。増ページした46年正月号の表紙(本文とは別に印刷する)に赤色を復活させ、2月15日号以降は表紙とも20ページにして、毎号2色刷りの表紙になる。戦中の朱色(44回参照)よりも暗い赤色を使ってみたり、赤色部分を逆L字型に配したレイアウトや足元の赤い帯、白抜きと墨文字の題字などを試している。最終的には、題字は白抜きで、題字周辺に幅ひろい赤い帯を刷る単純なデザインに落ち着き、赤色も明るい朱色になって、何年も使われる(23回参照)のである。
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左:『アサヒグラフ1946年1月5日号(B4判、表紙とも36ページ、表紙本文とも厚み0. 09ミリ)。右: 46年2月15日号(B4判、表紙とも20ページ、表紙厚み0.13ミリ、本文厚み0.12ミリ)。この号から表紙が毎号2色刷りになる。『アサヒグラフ』が表紙のデザインや色遣いを模索していた時期である。
 
飯沢匡33年に朝日新聞社へ入社。仙台支局から東京本社学芸部、整理部と異動している。41年にラジオの放送劇を書いたとき、NHKの担当者に「印刷しては別人に見え、アナウンサーが発音すると本名のように聞えるという名を考えて下さい」と無責任な注文をしたところ、放送当日の新聞に「飯沢匡」という名が印刷されていた。劇作家としてのデビュー作、喜劇「北京の幽霊」は、43年に国民新劇場(築地小劇場を改称)で文学座によって公演され、次に書いたラジオドラマ「再会」はNHKラジオ賞を受けた。「北京の幽霊」上演に際しての杉村春子の機嫌の悪さを、のちに「疳症の強い杉村のこの悪癖」と、堂々と活字にしてしまう飯沢は、自分自身を「冷血的酷薄人種」と呼んでいる。
飯沢によると、「自由主義者を一掃するという大阪からやってきた重役の号令一下、新聞編集室から出版局に異動されて」、最後は幸運なことに、少年時代からあこがれていた『アサヒグラフ』配属になっていた。44年11月に上演された諷刺劇「鳥獣合戦」は、当時の非合理主義を批判し、戦争は科学の力で終結することを予言する作品だったが、「内務省の検閲課に呼び出され」「散々と油を絞られた」という。飯沢は、「これは童話劇であって、こういう暗い御時世にはこんなものが気分を明くすると思う」と白ばくれた。「諷刺劇というものは他のものに擬らえてあるので実体がつかめない」し、「動かぬ証拠はつかめないものなのである」。こうして、諷刺という武器を使って身を守った飯沢の経験は、戦後のGHQ検閲時代を生き抜くのにも、大いに役立つことになる。
飯沢副編集長の有名な初仕事が、46年正月号(1月5日号)に掲載された4ページ構成の「はつわらひしんぱんいろはかるた」だ。飯沢は、「敗戦後だけに、平和になった正月号には人々に明るい笑いを贈りたかった」(『権力と笑のはざ間で』)と記している。「アメリカをからかいたくなり十分に検閲ということを計算に入れてこの企画を立てた」飯沢は、「い」の「「犬も歩けば棒に当る」という文字のところには、G・I(米兵)がパンパン(売春婦)と共に歩いている写真を載せた」(飯沢匡『武器としての笑い』岩波新書、77年)。「憎まれ子世に憚る」が東条英機、「惣領の甚六」が近衛文麿、「嘘から出た誠」が長崎原爆のきのこ雲、「門前の小僧習はぬ経を読む」がG・Iと話す少年という具合に、戦争を振り返り、敗戦を噛み締めながら、権力を諷刺する内容になっている。
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「はつわらひしんぱんいろはかるた」『アサヒグラフ46年1月5日号(グラビア印刷)の前半。右上の「犬も歩けば棒に当る」は売春婦と歩く米兵、左下の「嘘から出た誠」は長崎原爆のきのこ雲。
 
「ろ」の「論より証拠」の写真にキャプションはついていないが、被爆した広島の空撮写真である(「ろ」の字の左上に原爆ドームがぼんやり写っている)。よほど注意深く見なければ東京あたりの焼跡と区別がつかないし、検閲する側も広島だというキャプションがついていないので、チェックしにくい。つまりこの写真は、わざと広島の文字を入れずに、わかる人にはわかるようにして、禁じられている原爆被害の報道を、しらばっくれて行なったのだろう。「論より証拠」の広島空撮と、「嘘から出た誠」の長崎原爆のきのこ雲は、2枚とも『LIFE』の「WHAT ENDED THE WAR」(1945917日号)掲載の写真がもとになっている。じつは、3か月後の『旬刊ニュース』5号(46330日発行)にも同じ広島空撮写真が掲載されているが、真っ黒につぶれて、ほとんど気がつかないような取り上げられかたである。
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「はつわらひしんぱんいろはかるた」『アサヒグラフ46年1月5日号(グラビア印刷)部分。「論より証拠」にキャプションはないが、被爆した広島の空撮写真(『LIFE』1945年9月17日号掲載)である。
 
また、同じ朝日新聞社から出ていた『週刊少国民』(45年10月14-21日合併号)の表紙写真「進駐兵と日本の少国民―米誌従軍記者フレツド・スパークス氏撮影―」が、「門前の小僧習はぬ経を読む」に使われるなど、新聞社の写真収集力や撮影力が、十分に生かされている企画である。飯沢は、「何といってもこの企画は、写真の場面が物をいうので、よい瞬間を的確に捉えていなくては諷刺は冴えない。また、ついにいわゆる「決定的瞬間」が捉えられなくて、つまらぬ「ありもの」の間に合わせで済ませた部分もあった」(『武器としての笑い』)と書いている。
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左:『週刊少国民45年10月14-21日合併号(B5判、表紙とも20ページ、表紙はグラビア印刷、本文活版印刷)表紙。右:「はつわらひしんぱんいろはかるた」『アサヒグラフ』46年1月5日号(グラビア印刷)の後半。「門前の小僧習はぬ経を読む」に『週刊少国民』表紙と同じ写真を使う。
 
 

58回 民主主義とアメリカ文化の受容(2)――『世界画報』の場合

『世界画報』(世界画報社、1946年1月創刊、月刊、B5判、本文28ページ、グラビア印刷は、良く言えば〈信念の雑誌〉、悪く言えば〈独りよがりの観念的な雑誌〉である。それは、民主主義とアメリカ文化の紹介をする一方で、戦争の真実を明らかにし、軍国主義を糾弾する写真報道への、強いこだわりを見せていたからだ。
その強いこだわりは、表紙に記された特集題からもうかがえる。「軍国主義の罪悪」(創刊号、46年1月、定価2円)、「民主化する農村」(2号、46年3月、定価2円)、「救ひを待つ人々」(3号、46年6月、定価2円50銭)、「戦争の実相」(4号、46年7月、定価2円50銭)、「世界は一つに」(5号、46年8月、定価3円50銭)、「欧州解放の記録」(6号、46年10月、定価3円50銭)、「ファシズムの根をたとう!」(8号、47年3月、定価10円)、「希望をわれらに!――危機のありのままの姿――」(9号、47年7月、定価18円)といった具合だ。定価は『旬刊ニュース』同様に、どんどん上がっている。
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左:『世界画報』創刊号(1946年1月、グラビア印刷)表紙。在外邦人引揚の写真のようだが説明はない。
右:『世界画報』8号(47年3月、オフセット印刷)表紙。本文はグラビア印刷。表紙のミス・アメリカの顔写真には「朝のヴイーナス」というタイトル。「輝くひとみ、明るいひたい、その上にさんとして光る冠は〝あこがれ〟の象徴です。ただし政府や大臣が押売りする〝あこがれ〟ではありません」という押しつけがましいキャプションがつく。
 
『世界画報』には、ずっと目次がない。当初はノンブル(ページ番号)もないので、全体の構成が見えない。創刊号を見ると、記事のタイトルのつけかたにも基準がない。見出しなのか、スローガンなのか、区別のつかない大きな文字がところどころに載っている。創刊号の大きな文字を拾うと、「裁かれる戦争犯罪」「信じられない? 信じたくない!」「しかし認めなくてはならない現実だ!!」「軍国主義の悪夢よ!! 消え失せよ永久に!!」「東京の横顔」「日本的民主主義」「婦人参政権と食糧」「軍国主義の残骸」「日本人捕虜の生活」「日常生活に入り込む科学」「薬品界の花形ペニシリン」「巨人起重機」「水中電気鎔接」「白堊の議事堂の内と外」「国民の声の解放」「在外邦人引揚」「移り行く東亜小景」「進駐軍スナップ」「編輯室より」となる。創刊号の用紙は硬く(表紙・本文とも厚み0.12ミリ)、レイアウトも生硬で、アルバムのように単調だ。また、戦争関連の記事と、アメリカ文化紹介の記事が、同じ見開きに脈絡なく並ぶのも奇異だ。
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『世界画報』創刊号本文(46年1月、グラビア印刷)の一例。右ページまでは、「日本人捕虜の生活」という3ページものの記事で、写真にキャプションもつかないが、右下の写真は「尻相撲」に興じる日本人捕虜であろう。左ページは「日常生活に入り込む科学」というアメリカ文化紹介記事。次のページをめくると、「薬品界の花形ペニシリン」「巨人起重機」「水中電気鎔接」という横書きの小見出しのつくグラフ記事が現れるが、それが「日常生活に入り込む科学」の一部分なのか、別の記事なのかは、何度めくってみてもよくわからない。
 
もちろん、号を追ってレイアウトはこなれてくるが、雑誌的な魅力が増してきたとも言えない。「戦争の実相」という特集題を掲げる4号(46年7月)の「戦争の実相」と「処刑」という記事では、洋書から引用して、戦死者や死刑執行現場など、残虐な写真を、これでもか、これでもかと見せる。そういう記事と、アメリカの住宅文化紹介記事が同じ号に載っているという、ちぐはぐな構成は変わらない。残虐な写真をしつこく並べるところは、小平事件の現場写真を載せた当時の猟奇雑誌(『犯罪実話』創刊号、47年7月)のグラフページにも似た雰囲気だ。これでは、家庭に持ち帰っても家族が喜びそうにない。
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左:「小平事件現状写真特報」『犯罪実話』創刊号(畝傍書房、47年7月、オフセット印刷)。「未公開特ダネ大写真グラフ・悽惨身ノ毛モヨダツ」と銘打たれている。本文は活版印刷で、口絵はオフセット印刷
右:「戦争の実相」『世界画報』4号(46年7月、グラビア印刷)。「サタデー・イブニング・ポスト紙に発表し、最近単行本となつて“What it takes to rule Japan”といふ題で発行されたハロルド・J・ノーブル氏の著書の中に掲げられた写真」の引用であるが、『犯罪実話』のグラフ記事に共通する暴露趣味が感じられる。
 
『世界画報』は、創刊当初は刊行頻度についての記載がない。「毎月一回一日発行」と記されるのは、9号(47年7月)から。しかし、3号(46年6月、定価2円50銭)の奥付に「半年十五円・一年三十円」と、月刊を前提とした値段が記されているのだから、当初から「月刊」を目標にしていたのは間違いないし、実際に3号から5号までは月刊で刊行している。ところが、その後は3か月以上続けて刊行できたのは数えるほどで、平均して年7冊の刊行だ。そして、49年後半には予約購読制の雑誌になって、新刊小売書店の店頭から消えてしまっている。創刊以来のB5判を変更して、一回り大きいA4判になった32号(50年5月)の「編集室から」には、「これまで印刷日数がどうしてもかゝりすぎて、ニュースがニュースにならぬのでしたが、営業部の努力で、この号からその日数がぐっと短縮されました。これからはどしどしホット・ニュースを毎号掲載できるものと思います」というコメントと、「次号からは必らず定期刊行を厳守いたします」という決意が掲載されているが、書店の店頭に置かれない予約購読制となっているのだから、時代の感覚をキャッチして鮮度で勝負することからは、すでに撤退していたはずである。また、創刊以来の実績を見る限り、この先もあまり信用されそうにない決意表明だ。
前回取りあげた『旬刊ニュース』は、実話雑誌になって消えていったが、『世界画報』は、当たりさわりない内容の「画報誌」に向かったのである。「画報誌」は、役に立つ教養や世界に広がる目を売り物にするが、速報性を重視してはいない。速報性を求められる週刊グラフ誌とは、ジャンルの違う雑誌なのである(週刊誌の速報性については35回参照)。 
戦争の真実を明らかにして軍国主義を糾弾する『世界画報』の出資者は西園寺公一で、編集人は越寿雄という組み合わせだった。西園寺公一は、元老・公望の孫で、戦後の参議院議員時代には、越が秘書役を務めた。戦前に、やはり越を編集人にして『グラフイツク』(創美社36年創刊、グラビア印刷)という四六4倍判のグラフ誌を出している。『西園寺公一回顧録「過ぎ去りし、昭和」』(91年、アイペックプレス)によると、『グラフイツク』では「中国だけではなく、世界の動きには敏感に反応する編集を心がけていた」という。その後、ゾルゲ事件連座して執行猶予刑を受けた西園寺だから、戦後の『世界画報』で「戦争や政治のことを知らされていなかった大衆に、現実のことを知らせてやろう」としたのは、当然のことである。「戦争で日本の軍隊がアジアでどんなことをしてきたのか、文章だけでなく、写真を使って知らそうと考えた」のだ。もちろん、その信念は間違っていない。しかし西園寺の発想は、大衆は何も知らないという前提に立っている。これでは、送り手側の一方的な押しつけになりがちである。読者を啓蒙してやろうという視線が、『世界画報』を独りよがりの観念的な雑誌にしてしまった。
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左上:左開き横組みになった『世界画報』9号(47年7月、オフセット印刷)表紙。デザイン優先となり、18enとか9gôとローマ字表記される。直接戦争を取り上げることはなくなり、国内・海外の社会問題を扱っている。本文はグラビア印刷
右上:予約購読制の『世界画報』31号(50年2月、オフセット印刷)表紙。本文はグラビア印刷。内容は速報性のないバラエティ記事で埋められている。次号からA4判になるとの告知が載っている。
下:『グラフイツク』9月上旬号(創美社、36年9月1日発行、四六4倍判、左開き横組み、表紙とも16ページ、グラビア印刷)。戦前、西園寺公一越寿雄という『世界画報』と同じコンビで刊行したグラフ誌。これが創刊号かもしれないが、巻号の記載なし。
 

『グラフイツク』9月上旬号(創美社、36年9月1日発行)の「南洋視察団の帰朝報告」(撮影:大宅壮一)。細かく写真と文字が割り付けられているが、大判らしいデザインの魅力に欠けている。
 

『グラフイツク』5巻1号(創美社、40年1月1日発行、四六4倍判、表紙とも40ページ、グラビア印刷活版印刷)の見開き。活版印刷ページを混ぜることで、創刊当初の緊張感は失われてしまった(左ページが活版印刷)。
 
『世界画報』2号の「編輯室より」に、「A・Pとの特約成り、本誌は毎号AP提供の最新海外写真を掲載します」と太字で記されている。海外の写真には、AP以外ではサン=アクメなどの通信社の名が記され、国内の写真には、CIE、サン・フォト、時事通信社、日本ニュース、読売新聞社などの名が見える。次第に田村茂や渡部雄吉が撮影した写真が増えてくるが、これが世界画報社独自の取材であった。

A4判になった『世界画報』32号(1950年5月)の「踊る小さな芸術家」(撮影:渡部雄吉)。