戦後グラフ雑誌と……

手元の雑誌を整理しながら考えるブログです。

2010-01-01から1年間の記事一覧

32回 『太陽』に見える『暮しの手帖』『LIFE』からの影響

『太陽』(平凡社、1963年7月創刊、当初は定価290円)は、「「きりのない百科事典」であると同時に「目で見る詞華集」でもあります」(「創刊のことば」)と自分自身を規定している。毎号特集を組む、ぜいたくな教養志向の雑誌としてのスタートである。。創…

31回 『週刊サンニュース』の血筋を引き継ぐ『太陽』

1940年代アメリカの週刊『LIFE』は、60年代日本の月刊『文芸春秋』に相当する、という感想を、前回述べた。20年という時代の差は、もちろん、日米の経済力の差である。40年代後半の『LIFE』(週刊)の本文は、64ページから144ページくらいだから、同時代の『ア…

30回 『LIFE』は、日本で言うところのグラフ誌だったのか?

『ホープ』(実業之日本社、1946年1月創刊)の『LIFE』風外観は、1年で終った。それからほぼ1年後に、「日本の『LIFE』をつくる」と意気込む『週刊サンニュース』(サン・ニュース・フォトス、8号からサン出版社、47年11月創刊)が登場したが、1年半しか続かな…

29回 娯楽雑誌『ホープ』から、実用雑誌『オール生活』へ

実業之日本社の社史は、「昭和二十六年三月、一時は盛んな売行を見せた『ホープ』が、その後誌勢徐々に後退したところから、六月一日より誌名を『オール生活』と改題し、内容も従来の娯楽雑誌から生活指導雑誌に切りかえて再出発した」(『実業之日本社七十…

28回 方針のふらつく娯楽雑誌『ホープ』の1949-51年

『ホープ』の扉に、岩田専太郎が描く女性のイラストが載るようになるのは、1948年の10月からだ(49年になると、山名文夫のイラストも使われる)。そのころ、表紙が変わる。鮮明な色のバックに、女性のアップが浮かび、店頭で目立つスタイルになるのである。 …

27回 大衆雑誌から娯楽雑誌へ向かう『ホープ』の1948年

「新しい大衆雑誌」を自称する『ホープ』(1946年1月創刊)の編集方針は、「平凡の中のトツプに坐るやうに努力しよう」だった。「平凡」の基準は、終戦後最大の難問――食糧問題と住宅問題――が安定してくるにつれて、徐々に変わるのは当然のことだ。『LIFE』風…

26回 「平凡」に徹する大衆雑誌『ホープ』の1946-47年

『ホープ』(実業之日本社)が創刊された1946年1月は、終戦後初めて迎える新年であり、区切りよくここからスタートしようという雑誌が集中して、創刊ブームとなった。『世界』(岩波書店)、『展望』(筑摩書房)などの硬派総合月刊誌も、このとき創刊されて…

25回 『毎日グラフ』『LIFE』『ホープ』という連想

『毎日グラフ』(1948年7月1日創刊)の表紙のデザインは、アメリカの『LIFE』(36年11月23日創刊)の物真似だ、と思っている人がいるかもしれない。たしかに、右開きと左開きの違いはあるが、表紙の左上に雑誌名を赤地に白抜きで入れているところは、よく似…

24回 『毎日グラフ』のロゴデザイン(2)

『毎日グラフ』の表紙ロゴは、創刊号(1948年7月1日号)ではまだ固定していなかったことを、前回述べた。 一般的に雑誌は、満を持して創刊に至るものと思われているが、実際には、準備不十分で創刊日が迫る。また準備段階では気がつかなかった用紙、印刷、デ…

23回 『毎日グラフ』のロゴデザイン(1)

さて、全国に取材網と販売網を持つ毎日新聞社から1948年7月に創刊された『毎日グラフ』は、無名の『週刊サンニュース』に比べると、段違いに有名なグラフ誌である。 しかし古本としての人気は、大量に出回っている『アサヒグラフ』に及ばない。関東大震災後…

22回 『毎日グラフ』創刊号と大宅壮一の写真評論

大宅壮一(1900~70)が1949年の1年間、24回にわたって『毎日グラフ』(当時は月2回刊)に連載した「写真時評」を軸に、グラフ系の雑誌の動きを追ってきた。大宅の連載は短い文章であったために、かえって論旨が明快で、なおかつ当時の状況を知るのに便利で…

21回 『週刊サンニュース』創刊の1947年、『毎日グラフ』創刊の1948年

『週刊サンニュース』創刊の1947年が「紙飢饉」の年であったことは、前に述べた。まず47年4月17日に新聞および出版用紙割当委員会出版部会(委員長は、岩波書店支配人・小林勇)で割当以外の用紙の使用禁止が決まっている。石炭不足による用紙生産低迷を受け…

20回 『週刊サンニュース』から「岩波写真文庫」へ

前述の「先輩に聞く」(『アサヒカメラ』1950年6月号)で、名取洋之助は、写真は「芸術写真」以外の「もつといろいろな方面に、たとえば、科学とか、報道とかに使われるものだ」と規定し、「報道写真の場合は、新聞で言えば『解説記事』」であると主張してい…

19回 『週刊サンニュース』の用紙割当と、長野重一の活躍

1949年3月5日刊の『週刊サンニュース』2巻12号には、「編集」のメンバーであったはずの長野重一撮影の記事「都市計画のモデル・シティ 大分市」が掲載されている。のちに「岩波写真文庫」の撮影スタッフとして活躍する長野の、初めての「報道写真」である。こ…

18回 『週刊サンニュース』の限界

名取洋之助の唱える「報道写真家」像――「一人でシナリオ・ライター、監督、カメラマン、その上編集者をも兼ねる」――は、あまりに理想論でありすぎた。仕上がりの記事の姿を想定して撮ることは必要だが、安っぽいお涙頂戴記事や、独りよがりの啓蒙主義になる危…

17回 『週刊サンニュース』で、木村伊兵衛は何を撮ったか(2)

木村伊兵衛は、『週刊サンニュース』では、ニュース性のある記事から、いつ掲載してもよいような記事まで、いろいろと担当していた。前回同様、木村が撮影した3点の記事を紹介するが、どのようなジャンルでも撮ってしまう木村の、職人としての腕の確かさが伝…

16回 『週刊サンニュース』で、木村伊兵衛は何を撮ったか(1)

前回紹介した〈『週刊サンニュース』の時代――報道写真と「名取学校」〉の展覧会図録(JCIIフォトサロン、2006年)を見ると、撮影や執筆を担当したスタッフの名前や略号が書き込まれた創刊号(1947年11月12日)が残されているようである。創刊からしばらくは…

15回 『週刊サンニュース』のカラー表紙

2006年の終わりに、東京・一番町の「JCIIフォトサロン」で、〈『週刊サンニュース』の時代――報道写真と「名取学校」〉という写真展が開かれ、木村伊兵衛、藤本四八、小柳次一、三木淳、稲村隆正、薗部澄、小島敏子、長野重一の諸氏が『週刊サンニュース』の…

14回 『週刊サンニュース』の末期症状(2)

『週刊サンニュース』の末期、2巻9号(1949年2月5日)から、最終号の2巻12号(49年3月5日)までは、ニュース系の記事は、実は、ちょっと持ち直している。休刊が決まって、ストックしていた記事を消化しようということだったのかもしれないのだが、2巻9号(本…

13回 『週刊サンニュース』の末期症状(1)

左開き横組みでスタートした『週刊サンニュース』が右開き縦組みになったのは、8号(1948年1月29日)からで、版元も毎日新聞社が出資する株式会社サン・ニュース・フォトスから、有限会社サン出版社に変更になった。 三神真彦『わがままいっぱい名取洋之助』…

12回 『週刊サンニュース』の啓蒙主義(2)

『週刊サンニュース』は創刊号から、「ふえる人口 1分間に2.6人」という、グラフを使った記事を載せている。表やグラフを使って、難しい内容を分かりやすく解説しようという意図が見える。その考えかたを発展させたイラスト記事が、右開き縦組みになってから…

11回 『週刊サンニュース』の啓蒙主義(1)

『週刊サンニュース』の18号(1948年6月25日)に「読者より読者へ・読者より編集者へ・編集者より読者へ」というコラムがある。いわゆる読者欄だ。5つの注文を書いた投書が載っているが、前半の3項目は以下のようである。 一、表紙があまり内容と合致しない…

10回 『週刊サンニュース』のレイアウト(3)

初期(創刊号から7号)の『週刊サンニュース』の左開き横組みは、レイアウトする立場からは、たいそう合理的だ。雑誌全体、一つの記事、一つの見開き、本文の組み方、写真のレイアウト、キャプションの組み方、というすべての観点から見て、左上から右下方向…

9回 『週刊サンニュース』のレイアウト(2)

『週刊サンニュース』(サン・ニュース・フォトス、8号よりサン出版社)の創刊号(1947年11月12日)から7号(47年12月25日)までは左開き横組みというのが、個性的だったと評価されている。だが、新聞紙のような紙質で横組みだから、針金綴じをはずしてしま…

8回 『週刊サンニュース』のレイアウト(1)

『週刊サンニュース』は、名取洋之助が「日本の『LIFE』をつくる」という年来の夢を実現しようとして刊行したものだったといわれている。もちろんそれは、報道写真という仕事の受け皿となる雑誌、という意味だが、『LIFE』のページ数(約60~140頁)には遠く…